雨音が、聞こえた。
軒を叩く音。
激しくはなく、楽器のように軽やかな、雨の音が。
その音色に剣心は目を覚ました。
寝転んだ布団の上から、外の様子を伺う。
開け放たれた窓から見える四角く切り取られた空は、明るい水色をしていた。
「あ、剣心、起きてた?」
遠慮がちに開かれた襖の隙間から、薫の顔が覗いた。
志々雄との決着をつけた後、満身創痍の剣心は京都の「白べこ」で厄介になっている。
薫と弥彦はすっかりここの面々とうちとけて、剣心の看病をしながらあれこれ店の手伝いをしたり葵屋の復旧の具合を覗いたりして日を潰していた。
「外は、晴れているようでござるが・・・・・・」
「うん、お天気雨よ。じきにやむと思うけれど」
横になったままで薫を見上げる。
つんと小さい頤。そこに続く細い首筋に、ふと触れてみたいと思った。
彼女を見ていると、傍にいると、心の奥がくすぐったくなる。
胸の内側を、甘く指でひっかかれるような、そんな感じに。
「雨、降りこんでないかなーと思って見にきたんだけれど、よかった、大丈夫みたいね。そのままにしておきましょう、これで少し涼しくなるかも」
薫は布団の脇に腰をおろし、枕元にあった団扇をつかってそっと剣心に風を送りはじめる。
彼女の手元を眺めながら、そういえば今日は朝から暑かったな、とぼんやり考えた。
「早いものねぇ、東京に帰るころは、すっかり真夏だわ」
ああそうか、もう季節が移るのかと改めて思った。
そういえば、今彼女が身につけているのは明るい生成り色の薄物で、青磁色の帯が目に涼やかだ。
剣心の、見た覚えのない着物だった。冴から借りたものだろうか。
「今更って感じだけど、うちに戻ったら衣替えしないと・・・・・・お父さんの夏物、剣心に仕立て直すから着てちょうだいね」
帰ったらすぐ、遅ればせながらの夏の支度に取り掛かろう、と。あれこれ頭の中で計画を立てる薫の瞳には、既に東京の道場の様子が映っているよう
だった。ここ何年も、ひとつの場所で季節のうつろいを感じたことがなかった剣心には、そんなふうに薫が口にする言葉ひとつひとつが、とても新鮮な
ものに感じられた。
「弥彦の夏物も用意しなくちゃね・・・・・・蚊帳も簾も出さなくちゃ」
「拙者も、手伝うでござるよ」
「うん! 早くよくなってね、剣心」
ぱぁっと、晴れやかな笑顔が向けられる。
剣心の一番好きな顔だ。
出逢ったときからそうだった。泣いたり怒ったり、くるくる変わる彼女の表情を見ているのが楽しくて。
そしてなにより、まじりけのない、澄んだ明るさの笑顔が眩しくて。
君が笑顔をくれてから、世界がかわってしまった。
ちょうど、今日の天気雨に打たれたみたいに。
「・・・・・・薫殿を思い出したよ」
「え?」
脈絡のない一言に、薫が首をかしげる。
「志々雄との戦いで、血が流れて意識が遠くなって、ああこれで死ぬんだなと思ったとき、薫殿の顔が見えた」
団扇をあおぐ手が、止まった。
「薫殿が待っているから、帰らなくてはと思った。だからまだ死ねないと、そう、思った」
透き通った瞳が、剣心を見ている。
剣心から、目を逸らせないでいる。
やがてその目から、ふわっと涙が浮かんで、透明な筋を頬にすべらせた。
「薫殿?」
横たわったまま、手を伸ばす。
「泣かないで」
「む、無理・・・・・・だって、嬉しすぎて・・・・・・」
伸ばせるだけ手を伸ばして、薫の腕をひいた。
ぱたり、と。彼女の上半身が、布団の上、剣心の胸の上に倒れこむ。
抱きしめる。傷が痛んだが、そんな些事には構わずに。
「わたしも」
「うん」
「わたしも・・・・・・少しでも、剣心の力になれた?」
「少しどころか、とても」
君のもとに帰りたいという一念が、命をつなぎとめてくれた。
彼女の姿と言葉とが、真際にあった死の淵から、生へと戻る道しるべになってくれた。
「ありがとう」
「・・・・・・うん」
「こんな男を・・・・・・ここまで追いかけてきてくれて・・・・・・ありがとう」
「・・・・・・うん」
胸の上で、震える彼女の身体は暖かかった。
それを感じながら、ああ、生きているんだなぁ、と。剣心は、そう思った。
★
雨はとっくに止んでいた。
布団の中から見える空は、先ほどの水色から濃い橙に変わっている。
きっと明日は晴れるんだろうな、と剣心は考える。
くい、と首を横に倒すと、すぐ傍に薫の寝顔があった。
泣き疲れたように眠りに落ちた薫は、敷布の一端に頭をあずけて、剣心のとなりに寄り添うように横たわっている。
そのうちに操か弥彦かが、様子を見にやってくるのだろう。
この様子を見られたものなら、ふたり揃ってさんざんにひやかされて、からかわれるに違いない。
でも、それも悪くはないかな、と剣心は思った。
君のせいだ、これは忘れていた「恋」という感情。
そっと身を起こし、覆いかぶさるようにして、彼女に顔を近づける。
夢でも見ているのだろうか、薫の瞼が、ふるりと震えた。
危険に晒してしまうからと、一度は手離したぬくもり。
でも、もう決して離しはしない。
「・・・・・・だから、これからもずっと、俺に守らせて」
愛しさを、夢の中まで伝えるように、その瞼に口づけた。
目覚めた後の君の瞳が、ずっと俺を見つめてくれますよう、祈りをこめて。
(了)
2012.07.21
モドル。