ここ数日、冷蔵庫を開ける度ごとに、頬が緩んだ。
理由は、真ん中の段に鎮座ましました、白いクリームの乗ったプリンである。
コンビニ謹製のプリンの側面には、黒いマジックで署名が記され―――いや、署「名」といっていいのだろうか、これは?
何しろ、プラスチックのカップに書かれているのは名前ではなく、「わたしの」という文字なのだ。
It's Mine
「薫、このプリンいつ食べるの?」
君がこのプリンを買って、独り暮らしの我が家の冷蔵庫に入れたのは数日前のこと。
ラベルを見ると、賞味期限は今日である。
「あ、今食べちゃう!それ食べてから帰るわ!」
台所の後片付けをしながら、薫が答える。夕飯を作ったのはほぼ俺だから、「せめてお皿くらいは洗わせて」というのが彼女の弁だ。薫は、料理が俺より
下手なことを気にしているようだけれど、別に君はまだ高校生で実家住まいなんだから、三十路の独居社会人に比べると手際が悪いことくらい、仕方が
ないと思うのだが。
ともあれ、後片付けを済ませてシンクを布巾できゅっと拭き清めた薫は、いそいそとプリンを取り出して座椅子に直行した。
「『薫の』じゃなくて、『わたしの』なんだ」
からかうように言いながら横に腰を下ろすと、薫は「だって、このうちで『わたし』って書くひとは、わたしだけでしょう?」と、すまして答える。
「それとも、他に『わたしの』って書くようなひとが、来る予定があるの?」
「これっぽっちもあるわけないよ」
きっぱり即答したら、君は「よかった」とにこにこ笑う。この笑顔が側にいてくれるというのに、他の女性を部屋に連れ込むなんて意味のわからない行為
を、俺がするわけがない。
しかしながら、君はプリンを食べ終えたら帰らねばならない。高校生の門限は早いのだ(ついでに言うと俺はいつも門限よりかなり早い時間に彼女を送る
ようにしているし)。今日はいわゆる「おうちデート」の日だったが、夕食が済んだ後は、そうゆっくりもしていられないのだ。
つきあい始めた最初のうちは、薫はよく俺に対して「剣心、真面目すぎるわ」と唇を尖らせたものだった。確かに、君の同級生の女の子たちのほうが余程
のびのびと、同年代の男子たちとの交際を楽しんでいることだろう。
「いまどき、おつきあいするのに両親の許可を貰いにくる彼氏なんていません」と、君に呆れられたこともあった。うん、あれは確かに前時代的だったなと
思っている。「お嬢さんとの交際をお許しください」とわざわざ挨拶しに来る彼氏だなんて、いまどき聞いたことがない。
でも、それだけのことをしてでも、俺はご両親からの信頼を得たかったんだ。逆に言うとそのくらいのことをしないと、信頼なんて得られなかったことだろ
う。何せ俺は「娘よりひとまわりも年上の彼氏」なのだから。
「剣心も、食べる?」
そう言って、プリンをすくったスプーンを差し出されて、断る男なんているのだろうか?むしろプリンより君を食べたいですというのが正直な気持ちだが、し
かし、俺は君が高校を卒業するまでは、清いおつきあいでいようと心に決めたのだ。だいたい、我慢できずに手を出したりした日には、俺は薫の父上に殺
されてしまうことだろうし。
と、いうわけで、俺は煩悩を押し殺しつつ「いただきます」と顔を寄せる。君は「あーん」と言いながらスプーンを俺の口へと運ぶ。
そのスプーンはコンビニのプラスチック製のではなく、ピンク色の桜のモチーフがついた、君専用のスプーンだ。
「・・・・・・どうしたの?もう一口食べる?」
「いや、そうじゃなくて・・・・・・そのスプーンとか」
「え?」
「この部屋、薫のものが増えたなぁと思って」
俺の言葉に、君はぱちぱちとまばたきをし、「確かにそうねぇ」と笑った。
「わたしのスプーンに、わたしのお茶碗に、わたしのお箸もあるわね」
君が俺の部屋に来るようになって、時々一緒に昼食や夕食を食べるようになって、君専用の食器が増えた。
いつか君が外泊できるようになって、朝ごはんも一緒に食べられるようになったら、君の歯ブラシや君のパジャマなんてものも増えるのだろうけれど、そ
れはもうしばらく先のことだろう。
「わたしの本に・・・・・・わたしのCD」
本棚とステレオの方を指差して、君は続ける。本は「面白かったから、剣心も読んでみて」と勧められて貸してくれたもので、CDは「剣心のうちのほうが音
がいいんだもの」と君が持ち込んだものだ。
すこしずつ、すこしずつ、俺の部屋の中に「君のもの」が増えてゆく。
それは嬉しくて、くすぐったくて、幸福なこと。
殺風景だった部屋に、はなやかで優しい色が増えていって、君の気配が増えていって、君とこの空間を共有して。君がいないときも、君がいたことを感じ
させてくれる。
できることなら、君本人がずっとこの部屋にいてくれたならば最高に幸せなのだが―――ひたらく言えば早く一緒に住みたいのだが、それも、もうしばら
く先のこと。もうしばらくは、辛抱しなくては。
「それに・・・・・・わたしのくまちゃん」
ひょい、と。傍らにあったぬいぐるみを、君は抱き上げる。それは、ミルクティーみたいな毛色をした、首にリボンを飾った熊のぬいぐるみだ。しかし、それ
については俺は異を唱えた。
「それは、俺のくま」
「えー?でもこれ、わたしが剣心にあげたのよ?」
「くれたってことは、今は俺のくまでしょう」
「あ・・・・・・確かにそうね」
納得した君の手からぬいぐるみを取り上げて、膝の上に座らせる。この熊は君が作って、俺にプレゼントしてくれた子なのだ。
「手作りするなんて凄い」と俺はしきりに感心したが、君は「手芸屋さんで売っていたキットを縫い合わせただけよ」としきりに謙遜した。だとしても、この仕
上がりから見るに、丁寧に心をこめて作ってくれたことは確かだろう。
社会人と高校生という、置かれた環境も立場もまったく違う俺たちは、頻繁に会っていつも一緒にいられるわけではない。だから、「わたしのかわりに、こ
の子をそばにおいてあげてね」と贈られたのが、この熊のぬいぐるみなのだ。
「薫のかわりに、ってことで貰ったんだから、もうこれは、俺のくまだよ」
そう言って、俺は熊の首を動かしてこくこく頷かせてみる。すると君は、食べ終えたプリンの容器を置くと、隣に座る俺のことをきらきらする目で見つめて
きた。
なんというか―――「とても楽しいことを思いついた」という感じの瞳で。
「・・・・・・じゃあ剣心、これは?」
そう言って、君は座椅子をぽんぽんと叩く。君が家に来るようになってから(並んでくっついて座りたいがために)買った、二人掛けの座椅子である。
「・・・・・・俺の座椅子?」
「じゃあ、あれは?」
「俺のテーブル」
「じゃあ、あれは?」
「俺の本棚」
君が次々と指差してゆくものに対し、俺はひとつずつ答えてゆく。
「じゃあ、この子は?」と、熊の耳をつつかれたので、反対の耳をつつきながら「俺のくま」と答えた。
そして君は楽しげに笑いながら、人差し指を自らの顔に向けた。
「じゃあ・・・・・・これは?」
なるほど、これを言わせたかったのか、と。
君の意図を理解して、俺は頬をほころばせた。
「俺の、女」
君の目を見て、ゆっくり言葉を区切って、そう言った。
すると、君はこぼれ落ちそうなほど目を大きくして―――次いで、ぶわっと顔に血がのぼり、耳からうなじまで真っ赤になった。
「・・・・・・薫?」
あれ、何か間違ったかな。と、思いつつ君の顔を覗きこむ。
すると君は、赤くなった頬に手をあてながら、言った。
「・・・・・・えっと・・・・・・『俺の彼女』って言われるものと思っていたから・・・・・・びっくりしちゃって」
!!!
・・・・・・・・・しまった、しくじった・・・・・・!!!
そうだ、そうだよな、そう答えるべきだったんだ!
「俺の女」だなんて、そんなストレートすぎる乱暴な言い方じゃなくて、「彼女」と言うべきだったんだ。
もしくは「恋人」とか「一番大切なひと」とか、相応しい言葉はほかに幾つもあるというのに。
なのに、つい油断して―――あまりに素のまますぎる言葉がこぼれてしまった。
ああああしまった気を悪くさせてしまっただろうか怒らせてしまっただろうか、幻滅させてしまっただろうか―――背中に冷や汗を流しながら、びくびくしな
がら君の顔を窺う。
しかし―――予想に反して、君は真っ赤になったまま、なぜか口許に笑みを浮かべていた。
「・・・・・・嬉しい」
「へ?」
「すっごく、嬉しい!」
言うなり飛びつかれたものだから、俺と君との胸の間で、むぎゅっと熊がつぶされた。
って・・・・・・嬉しい?
「・・・・・・あの、嬉しいって・・・・・・薫、怒ってない・・・・・・の?」
「怒るわけないじゃないの!すっごく嬉しいわよー!」
首に抱きついた君がぐりぐりと顔をすりつけてきて、ああ可愛いなぁ猫みたいだなぁいい匂いだなぁとうっとりする。いや、これはたいへん喜ばしい状況で
あるが―――でも、どうして?
「あの、薫。どうして、今のが嬉しいの・・・・・・?」
そう尋ねずに、いられなかった。だって今のは、俺としてはうっかり口が滑って心の裡があらわになった、「失言」に他ならないと思うのだが。
薫は顔をあげて、至近距離からじっと俺を見つめる。頬を紅潮させたまま、満面の笑みで「嬉しいに決まってるじゃない」と言い切った。
「だって、剣心っていつも真面目で礼儀正しいでしょ?勿論そういうところも大好きなんだけれど、もっとわたしに対して、欲張りになってくれてもいいのに
なーっていうか、その・・・・・・」
・・・・・・ああ、なんとなく、君の言いたいことはわかった。つまり―――
「もっと強引に、もっとがっついてもいいのに、ってこと?」
「そう!そんな感じ!」
我が意を得たり、というふうに、君は目を輝かせる。でも。
「買いかぶりすぎだよ、それは・・・・・・」
真面目で堅物なのは、きっと持って生まれた性質だと思う。しかし、こと君に関してはそうじゃない。
もっとずっと一緒にいたい。ぱくっと美味しく食べてしまいたい。自分のものにしてしまいたい。いつもそんなことばかり考えている。
呆れる程の独占欲と君だけにむかう激情を、それこそ持ち前の性格でどうにかこうにか押さえつけて包み隠して、なんとか体裁を繕っているというのに。
今の「俺の女」発言は、普段は押し殺している欲望というか独占欲というか君のぜんぶを俺のものにしてしまいたいとか、そんな感情がぼろっとこぼれ出
てしまったものだ。
「・・・・・・がっつきたいけれど、我慢しているだけだよ。少なくとも、薫が卒業するまでは」
「我慢しなくていいのに・・・・・・」
「しなきゃ駄目なの!それが俺たちの年の差のさだめなの!」
甘い言葉をぴしゃりとはねつけると、君は不満げに頬を膨らませた。あああまったくそんな表情も可愛いんだけれど―――子供みたいに、そんな邪気の
ない表情を見せるような君だからこそ、俺は我慢をしなきゃいけないんだ。
「わたし、もっと昔に生まれればよかったな」
「同年代に生まれたかったってこと?」
「そうじゃなくて、昔はわたしくらいの年でお嫁に行ってたんでしょう?江戸時代とか明治の頃とか」
「・・・・・・そういう発想?」
確かに、百年くらい時代が違えばそうだったのかもしれないけれど。突飛な発想が面白くて可愛くて思わず笑ってしまったが、そんな俺を見て、君もぱあ
っと笑顔になる。
まっさらでまっすぐな、この笑顔を曇らせないためにも。これから先、ずっとずっと一緒にいるためにも。
今はもうしばらく、真面目で堅物な俺でいなくては。
君はそれが不満なのかもしれないけれど、むしろ君には覚悟をしておいてもらわないと。
きっと、晴れてすべてを許される立場になったとき、タガが外れた俺は君を際限なく「がっつく」に違いないから。
そんな日が来ることが待ち遠しくもあり、君に幻滅されたらどうしようと、今から心配でもあるのだけれど。
でも、まぁ。
今の失言に―――「俺の女」発言に喜んでもらえたということは、君もそれを望んでいると思っていいのかな。
互いのすべてが、互いのものになる。そう遠くない未来のことを。
「薫」
「なぁに?」
「・・・・・・これは?」
先程の君に倣って、人差し指を自分の顔に向ける。
「わたしの、剣心!」
ほがらかな、元気いっぱいの声が返ってきて、俺は君をちからいっぱい抱きしめる。
君は俺のもので、俺は君のもの。
互いを抱きしめあって、ずっとずっと離れずに。そうやって、ずっとずっと、一緒にいよう。
ふたりの胸の間で、ふたたびむぎゅっとつぶされた熊に心の中でごめんと詫びながら、俺は君にキスをした。
了。
2017.09.22
モドル。