「さっきまで起きていらしたんですけど・・・・・・」
案内された奥の小上がり。薫は卓子に突っ伏して、すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてていた。
店の者がかけてくれたのか、肩には薫が今朝方着て出て行った羽織がかかっている。
剣心は店員に礼を言って、薫の向かいに腰を下ろす。
「・・・・・・薫?」
おそるおそる声をかけると、瞼がかすかに震えた。
「かおるどのー・・・・・・」
もう一度、呼ぶ。ぴく、と肩が動いて、んんんと小さく唸るようにしながら、薫はゆっくりゆっくり頭をあげた。
「その、遅くなって、ごめん・・・・・・」
語尾がだんだんと小さくなる。
目を覚ました薫は、むぅ、と開ききらない目で正面を見る。そして、そこにいるのが自分の夫だと確認するや、ゆるりと右手を持ち上げて突き出した。
「・・・・・・おっそーい!」
びし、と人差し指で額を弾かれる。
「あー、本当に、すまない薫殿っ!」
剣心は、がばりと頭を下げた。額は痛かったけれどそんなのたいして気にならなかった。
「もー、遅すぎるー!マドレーヌみっつも食べちゃったじゃない!太ったらどうしてくれるのー!」
「・・・・・・まどれーぬ?」
「うん、西洋のお菓子。あのね、このくらいの大きさでね・・・・・・」
まだ寝ぼけているのか、薫は指でお菓子の大きさを示しながら首を傾げた。
「んー?ってゆーかわたし何してたんだっけ・・・・・・ああそうそう、待ち合わせしてたんだわ」
ぱちぱちと何度か瞬きをした薫は、ようやく眠りの岸からこちら側へと戻ってきた様子で、改めて剣心の顔をのぞきこんだ。
「・・・・・・おでこ、痛かった?」
「いや、それほどでも」
「大丈夫?」
「いやほんとに・・・・・・」
「ううん、そうじゃなくて、どこも怪我したりしてない?なにか面倒なこととか、あったんじゃないの?」
剣心は一瞬きょとんとしてから、ふっと力を抜いたように、ちょっと情けない調子で笑った。
「薫殿には、お見通しなんでござるなぁ」
「え、だって剣心がこんなに遅れてくるなんて、なにか理由があるに決まってるもの」
当然でしょ、と言うように薫は答える。
「でも・・・・・・それにしても、こんな時間になるまで何があったの?」
「うん、説明すると長くなるので、帰りに歩きながら話すでござるよ」
「あら、せっかく来たんだから、まだ帰ることないわよ」
「え、しかし」
もう日暮れだ、甘味屋は閉店の時間だろうと剣心は訝しむ。
だが、薫はとても楽しそうな顔で小さく首を横に振った。
それは、今朝彼女が見せた、とっておきの楽しいいたずらを仕掛けたというような、嬉しそうな顔―――
「このお店はね、毎年この季節だけ、夜も営業するの」
言われてみれば―――店の入り口の方で賑やかな気配がする。こんな時間だというのに、新しい客たちが来店したようだ。
「お待たせしましたぁ!準備ができましたので、開けますねー」
剣心と薫が座る席のすぐ奥、庭に面した窓を隠すように立てかけてあった衝立を、店員がいそいそと取り払う。
今来たばかりの客たちの間から、歓声が起こった。
剣心も―――窓の向こうの光景に、息を飲む。
大きな窓の外、庭いっぱいに咲き誇る、無数の紫陽花。
小さい花が集まって手鞠くらいの大きさになり、それが更に幾つも幾つも寄り添うようにして咲いている。
色は紫に近い青で、樹によって少しずつ色味が異なっていた。
どの樹も今まさに満開をむかえ、ひとつひとつの花たちが互いに美しさを競い合っているようだ。
それは、梅雨の季節にだけ見ることができる、艶やかな花。
「昼は昼でキレイなんだけれど・・・・・・夜もまた、風情があるわねぇ」
薫がうっとりと呟く。
夜の暗闇でも花を愛でることができるよう、庭には幾つも灯籠が設えられていた。
店員の言った「準備」とは灯りをともすことだろう。やわらかな灯火に照らし出され、闇に浮かび上がる群花は、なんともいえず幽玄だった。
「この紫陽花はね、こばと屋の名物なの。剣心、知らなかったでしょ?」
魂を抜かれたように、ひととき花に見蕩れた剣心に、薫は満足そうに微笑んだ。
なるほど、だから燕たちも話題にしていたのか、と剣心は納得する。
「見せてあげたかった、っていうか・・・・・・一緒に見たかったの」
「ああ・・・・・・ありがとう薫殿・・・・・・驚いたでござるよ」
剣心の素直な反応に、いっそう嬉しそうに薫が笑う。
その笑顔も、まるで花がほころぶかのようで、剣心は今日いちにちの疲れを忘れた。
「・・・・・・来てよかったな」
随分と長い道のりだったけれど、と心の中で付け加える。
夜はこちらになっています、と店員が品書きを見せてくれたのを、ふたりで覗き込む。
この時間は、酒も出してくれるという。剣心と薫は目と目で頷きあった。
「で、剣心、何があったの?」
聞かせてほしいな、と甘えたように首を傾げる薫に、剣心は目を細める。
「長くなりそうだが・・・・・・では、花見をしながら、話すでござるよ」
タイミングよく酒が運ばれてきた。
まずは一献、と剣心がとりあげた猪口に、薫がとくとくと冷酒を注いだ。
★
そのうち、名物の「夜の紫陽花」を肴に飲もうという客たちが店にあふれ、こばと屋は昼以上に賑やかな雰囲気となった。
小さな波のように笑い声のさざめく華やいだ空気の中、薫は剣心の数々の受難に驚きながら相槌をうつ。
「うーん、わたしはやっぱり、一人目は男の子がいいなぁ」
長い話は、漸く赤ん坊が生まれたくだりにさしかかる。
お猪口一杯で頬をほんのり桜色に染めた薫は、頬杖をついて呟いた。
「拙者は、男と女とどちらも欲しい」
そんな答えがすぐに返ってくるのは彼にしては珍しいことだったので、薫は軽く目をみはって―――そして、ふんわりと、笑った。
「うん、両方だったら素敵ね」
「そうでござろう?」
「楽しみだなぁ、いつかきっと、そんな日が来るのね」
かすかにそよぐ湿った夜風に、紫陽花の花びらが揺れる。
花と薫を交互に眺めながら剣心は、なんだかんだあったけれど最終的に、今日は良い一日だったなと思った。
梅雨の合間の、或る日の出来事。
(愛し君への長き道のり 了)
2012.06.27
モドル。