おまけ(翌朝)








        右腕の包帯を直すのは、いつも君に任せていた。
        今朝も普段どおり、肩から吊った三角巾をきゅっと結んだ後、正面に膝をついて袷を整えてくれて―――
        その、近い距離に、昨日の事を思い出した。





        「薫殿」
        「え?」


        くい、と左手で抱き寄せる。
        驚く君に構わず、唇を寄せる。

        柔らかさを確かめるようにそっと重ねて、ゆっくりと離れて。
        そして目の前の君の顔を見て、つい、くすりと笑ってしまった。


        「な、何が可笑しいのよぅ・・・・・・」
        「いや・・・・・・すまない。昨夜もそんなに真っ赤になっていたんでござるか?」


        頬に、というより細い首筋にまで鮮やかに血がのぼって。指摘されたのが恥ずかしかったのか、君が怒ったようにそっぽを向く。
        「そんなの、自分じゃ見えないから知らないもんっ。剣心のほうが覚えているんじゃないの?」
        「そこまで気がつかなかったでござるよ、行燈の灯りじゃ薄暗かったから」
        実のところ、あの時はこちらもかなり感極まっていっぱいいっぱいだったから、それどころではなかったのだけれど。それは内緒にしておく。

        「うん、確かに昨日もこのくらい熱かったかも」
        頬に指を這わせてくすぐるようにしながら、君の温度を確かめる。
        きっと自分も、昨夜は似たり寄ったりの顔をしていたのだろうけど、それも棚に上げておいて。
        すると君は、「だって、仕方ないじゃない!」と拗ねたような顔で軽くこっちを睨み―――少し声を落としてつけ加えた。



        「・・・・・・はじめてだったんだから」



        ・・・・・・うわぁ。
     


        あああ、まったくもう。
        不用意にそういう可愛いことを言うから、だから―――



        「ごめん、もうちょっと」
        「・・・・・・っ!」

        左手でしっかりと、逃げられないように捕まえて、囁きながらもう一度口づける。
        緊張しているのか、抱きしめた身体は硬くこわばっていたが、やがて小さな手が必死にすがりついてくるのがわかった。

     
        その感覚に、苦しい程に愛しさがこみ上げる。
        ああ、生きている。
        君がちゃんと生きて―――この腕の中にいる。



        そのことが、泣けてきそうな程に、嬉しい。



        「腕・・・・・・痛くないの?」
        胸で押しつぶしてしまうのではないだろうかと、君は昨夜と同様に気遣ってくれるけれど、構うものかと抱きしめる力は緩めない。
        実際、もう痛みはさほど苦にはならないし、むしろ、このもどかしさのほうがよっぽど苦痛だ。

        「平気でござるよ。早く、治さねばいかんなぁ」
        「不自由だもんね、利き手が使えないと」
        「せっかく、薫殿が『許可』もくれたのだし」
        ぴく、と。君の身体が小さく震えた。
        「許可」とは言うまでもなく、「腕が治ったら襲ってもいい」許可のことで―――


        「・・・・・・剣心、変わったよね」
        「え?」
        「今までは、そんな、恥ずかしい事言ったりしなかったのに」
        「恥ずかしい、でござるかなぁ」
        「その、こんなふうにされるのも・・・・・・なんか、いきなりだったから、ちょっとびっくりしてるんだけど・・・・・・ね、どうして急に?」

        怒っているわけでも、咎めているわけでもない。君は桜色に上気した頬で、あくまで不思議そうに尋ねてくる。
        そのあどけない表情に引き寄せられて、問いに答える前に額に唇を寄せた。

        「ほら! またそうやって・・・・・・」
        「嫌?」
        「い、嫌じゃないけどっ・・・・・・どうしていいのかわからなくて困ってるのっ!」

        君は本気で困っているようで、ぶんぶんと首を横に振ると間近からの視線から逃れるように俯いた。
        だから、そういう反応がいちいち可愛すぎるから、どんどんちょっかいをかけたくなってしまうのだが・・・・・まず間違いなく、君はそれに気づいていないの
        だろうな。



        「もう、後悔したくないから」



        下をむいたままの君にむかって、ぽつりと言葉を落とす。
        自覚はある。確かに自分は「変わった」のだろう。

        「・・・・・・後悔?」
        「そう」



        あのとき、君がこの世から消えてしまったかと思った。
        失ってから、気が狂うくらい後悔した。

        まだ、ちゃんと「好きだ」と告げてすらいなかった。もっと強く、何度でも抱きしめて口づけたかった。
        だから、君を取り戻してからは、躊躇うことをやめた。


        本当は、ずっとこんなふうに君のことを、腕に閉じ込めたかったから。



        「いつか言おう、いつかそうしようと思っていて、結局その『いつか』を永遠に逃してしまうのは―――もう、御免でござるよ」
        小さな頤が上を向いて、睫毛の長い瞳と目が合う。君の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
        「・・・・・・いつかって、そんな前から思っていたの?」
        「うん、思っていた」
        「わたしは、わたしばっかりが勝手に剣心のこと好きなんだろうなって思ってた」
        「拙者も―――ずっと好きだった」

        くしゃり、と。君の表情が泣きそうに歪んで。それを隠すように、君は肩口に顔をうずめた。
        「・・・・・・もっと早く言ってよぅ・・・・・・」
        「うん・・・・・・すまなかった」
        「怖かったんだから・・・・・・剣心はいつかここからいなくなっちゃうんじゃないかって、ずっと不安だったんだから。剣心が京都から戻ってくるまでは、特に」
        「すまない、ずっと・・・・・・拙者は薫殿に甘えていたでござるな」
        「甘えて・・・・・・?」


        顔を上げて、君は深い藍色の瞳で、じっと見つめてくる。
        どんな宝玉にも負けないような、生き生きとした輝きを宿す目が、今は僅かに潤んでいた。

        「何も言わなくても、薫殿はいつも近くにいてくれると思って、甘えていた」
        けれど、君は消えてしまった。
        こうして取り戻すことはできたけれど、喪ったときのあの絶望感は、容易に忘れられるものではない。

        「そりゃ、言われなくたってずっとそばにいるけど、言ってくれたほうが、ずっと嬉しいわ」
        「・・・・・・うん」



        昨夜、君は約束してくれた。
        もう絶対いなくならないと。絶対に―――死んだりしないと。
        何より貴重な約束をくれたのだから、今度はこちらが応える番だ。



        「これからは、きちんと言うから」
        「・・・・・・うん」
        「ちゃんと、行動でも示すから」
        「うん・・・・・・って、え?」


        すり、と柔らかな頬に頬をすり寄せて。
        耳元に口づけると、君の身体が震えるのがわかった。


        「ちょっと、剣心・・・・・・や、やだっ!」
        「嫌?」
        「だからっ・・・・・・こ、心の準備くらいさせてってばー!」

        抗議の声を上げながらも、君は頬に瞼に繰り返される口づけをきつく目を閉じて受けとめる。
        昨夜、「治るまでは何もしない」と約束しておきながら、このまま押し倒してしまいたいな、などと無体な誘惑が頭をよぎる。君が欲しいのは勿論だけど、
        どれだけ君のことを好きなのかを伝えるには、このまま身体ごと愛してしまうのが手っ取り早い気がするから。

        と、そんなよこしまな考えが伝わってしまったのか。真っ赤になった君は胸に手をついて身体を押し返すようにしながら、最終通告を言い放った。


        「あっ、あんまり変なことすると、今夜は一緒に寝てあげないんだからねっ?!」
        「おろ、それは困る」


        大人しく従って腕から解放すると、君は大きな瞳を上目遣いに、ぎっ、と俺の顔を睨みつける。
        そして何も言わず、今ので乱れた袷をもう一度直してくれるけれど―――その表情はすこし怒っているように見えた。

        怪我人を邪険にできない優しさにつけこんで、少々調子に乗りすぎてしまったかな、と反省していると―――君はつぶやくように言った。



        「・・・・・・でも、嫌じゃないよ」
        「え?」



        おもむろに、君は両手を伸ばした。
        瞬間、視界が翳った。

        頬に重なった優しい感触に、両腕できゅっと抱きつかれたことを、一拍遅れて理解する。



        「そりゃ、どうしていいかわからなくて戸惑いはするけど、行動で示してくれたほうが・・・・・・ずっと嬉しいんだからね」




        それだけ言うと、君はぱっと腕を解いて、するりと離れた。



        なかば無意識に、回れ右をした細い背中に向けて、手がのびる。
        リボンがふわりと揺れて、君の姿が廊下に消えた。
        虚しく空を掴んだ左手で、ぺちん、と額を叩く。




        「・・・・・・参った」




        やっぱり先程押し倒しておけばよかっただろうか。
        君に語ったのとは別種の後悔が湧き上がり―――いや、まずはこの腕を早く治さなくては。








        この感情に歯止めをかけられなくなる日は、きっと遠くないだろうから。
















        了。







                                                                                        
    2012.11.07
        



        モドル。