そうか、これが「愛している」ということか―――と。





        胸の奥を満たす想いの正体を知ったとき、まず一番に、戸惑った。
        あの頃は、自分が誰かを愛することなど決してないと思っていたし、誰かを愛することなど、許されるとは思っていなかったから。



        でも、今は―――









     HOWEVER










        その日、薫は前川道場に出稽古に出かけ、剣心も警察署での用事を済ませたあとに顔を出した。
        前川が「剣心君が稽古を見に来ていたら場が引き締まる」などと言ってくれているのと、剣心自身も前川道場の活気ある稽古の様子を見るのは好きだっ
        たので、時折は足を運ぶようにしているのだが―――稽古が終わった頃、剣心はある一団が薫にただならぬ視線を向けているのに気づいた。

        二十歳前後の、数名の門下生たちである。そのうちの一名が、前川と談笑している薫のことを、何か思いつめたような目で見つめていた。周りにいる青年
        たちも、彼の背を叩きながらしきりに「早く行けよ」「勇気出せ」なとどせっついている。


        ―――さては、薫に懸想している門下生が、告白でもしようとしているのかな、と思った。
        剣術小町の愛称を持つ薫は、人妻になってからも相変わらず剣術青年たちの憧れの的である。主ある花とわかっていても、「せめて気持ちだけでも」とい
        うつもりだろうか。それにしても良人たる自分がすぐ傍にいるというのに、度胸があることだ―――と、思わず知らず剣心の彼らを見る目が険しくなる。

        しかし、彼らはじきに剣心の方へと視線を移した。先程から仲間たちに肩を叩かれていた青年が、覚悟を決めたように大きく息を吸い込むと、きりっと眦に
        力をこめてこちらに歩み寄ってきた。薫絡みで喧嘩でも売ってくる気であろうか。こと薫の事となると血の気が多くなる剣心が、「命知らずな奴だ」と思いつ
        つ身構える。
        大股に近づいてきた彼は、間合いの手前でぺこりと礼をすると、真っ正面から剣心の目を見据えて、言った。



        「あの・・・・・・剣心さんは薫さんに、何て言って求婚したんですか?!」



        それは、思いがけない質問だった。
        虚を突かれた剣心は、「・・・・・・は?」と言ったまますぐに答えを返せなかった。


        青年は剣心が呆気にとられているのに気づく様子もなく、緊張した面持ちで補足説明をする。
        「あのっ、俺・・・・・・す、好いている許嫁の子がいまして・・・・・・今、そろそろ祝言をっていう流れになっていまして、それで・・・・・・」
        両家で話が進んでいるところなので、彼が何もせず黙っていても祝言は執り行われる予定だという。しかし、彼としてはやはり自分で改めて、大好きな彼
        女に結婚の申し込みをしたくて―――それで、既婚者の「先輩」である剣心から助言が欲しいということらしい。

        「なんて言われたのか、薫さんに尋ねようと思ったんですが、なかなか切り出せなくて・・・・・・でも、考えて見れば今日は剣心さんが来ているので、それ
        で、御本人から是非ご教示いただきたいと・・・・・・」
        自分の妻に横恋慕をしているわけではない、とわかって、剣心は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。しかし、この質問はこの質問で、かなり手強いもの
        である。ちらりと目線を動かして薫の姿を捜すと、前川の奥方に呼ばれたらしく、ちょうど道場の外へと出てゆくところだった。そのことに少し、ほっとする。

        「・・・・・・別に、ごくごく普通でござるよ?」
        「いえっ!ぜひ参考にしたいので!」
        「いや、本当に参考にはならぬと思うが・・・・・・」
        いつの間にか、青年をせっついていた他の門下生たちも集まってきて、剣心の周りには小さな人垣ができていた。剣心は自身に気合を入れるように、ひと
        つ、咳払いをして―――



        「・・・・・・拙者の、妻になってくれ、と」



        おおー、と、歓声があがった。
        「いや、ほんとに普通でござろう?!なんの捻りも工夫もないでござるよ?!」
        「いえっ、やっぱり簡潔にずばっと言ったほうがまっすぐに心に響きますよねっ!男らしいです!」
        よーし俺もそれに倣ってと拳を握りしめる青年の肩を、仲間たちが頑張れよと言って叩く。剣心がその微笑ましいやりとりに頬を緩めていると、更に質問が
        飛んできた。

        「あの、剣心さんはどうして薫さんと夫婦になろうと思ったんですか?」
        「馬っ鹿そんなの当然だろ?薫さんだぞ?」
        「そうだそうだ、俺だってできることなら嫁にしたいとずっと思ってたし」
        その告白に、剣心の眉がぴくりと反応したが―――あくまでも個人の見果てぬ夢なので、さらりと流してやることにした。この道場に通う青年たちにとって
        薫は憧れの対象であるから、そんな事を夢見るのも無理からぬことだ。

        「そりゃ当然だけどさ、こう・・・・・・剣心さんしか知らないような面とか、そういうのがきっと、あったんじゃないかなーと思って」
        剣心は彼らから「最強の剣客」として一目置かれているが、この話題に限っては「皆が崇拝する女性を射止めたうらやましい男」である。この機会にここぞ
        とばかりに、というふうに、興味津々の目を向けてきた彼らを前に、剣心は「そうでござるなぁ・・・・・・」と真剣に言葉を吟味する。



        ごく単純に言えば、彼女が好きだからなのだが。でも、それだけではなくて―――




        「拙者の人生を、変えてくれたひとだからかな」









        ★









        「やだ、そんな話で盛り上がっていたの?」
        水色の空の端が、橙色に変わり始めた帰り道。薫は剣心から門下生たちとのやりとりを聞いて、ころころと笑った。


        「で・・・・・・ちゃんと答えたの?」
        「勿論、ちゃんと答えたでござるよ」
        「わたしも聞きたいなぁ、求婚の台詞」
        「薫殿は、もう聞いたでござろう」
        「もう一回聞きたいの」
        「・・・・・・」
        「・・・・・・もうっ!剣心のけちんぼ」

        いー、と顔をしかめてみせた薫の肩から、剣心は竹刀と道具袋を取り上げた。せめてもの詫びのつもりで、かわりに肩に担いでやる。身軽になった薫は剣
        心より先に数歩駆け出して、くるりと回れ右をして振り向いた。
        「ありがと!」と言って笑った彼女の髪が、やわらかな風にのってふわりと揺れたのを見て、剣心は目を細める。



        改めて、この笑顔を、「好きだな」と思った。



        「どうして夫婦になろうと思ったのか」と彼らに訊かれたが、まずは単純に、好きだからだ。
        光がさすような笑顔も、幼い響きの残る鈴を転がすような声も、気の強いまなざしも、撫でたら心地よい髪も花びらのような唇も―――
        すべてを好きだから、ぜんぶ自分のものにしたかった。君のすべてが欲しかった。
        そのかわり、俺の未来もぜんぶ君に捧げて。これから先にあるすべての時間を、君と共有していきたいと思った。

        そして、門下生たちに言ったとおり、君は俺の人生を変えてくれた。
        間違いなく、よい方向へと。


        孤独に生きることが、自分に課せられた罰だと思っていた。けれど、薫と出逢って独りではなくなった。
        君と過ごす日々のなにげない出来事が、紡がれる時間のすべてが喜びだった。自分が薫を求めたのと同じように、薫も俺を必要としてくれた。

        君を大事に想うが故に一度は離れようとしたが、出来なかった。離れてからも想いは募るばかりで、改めて、君がどうしようもなく好きなのだということを、
        強く自覚した。

        待っているひとがいることが、帰る場所があることが、闘いの中、大きな力となった。
        生き続ける、勇気になった。



        薫が、いてくれたから―――今、俺はこうして、ここにいる。




        「・・・・・・ずっと、好きだったの?」


        心のうちを見透かされたような台詞に、どきりとする。
        「許嫁ってことは、小さい頃におうち同士が『夫婦に』って決めたんでしょ?でも、きっとそんな事は関係なく、互いに好きあっていたのよね」
        ああ、そちらの話か―――と、なんとなくほっとしつつ、剣心は頷いた。

        「うん、だからこそ、自分からきちんと求婚しなければ、と思ったそうでござるよ」
        「それは、相手の女の子も絶対に喜ぶでしょうね・・・・・・」
        その様子を想像しているのか、薫は両手を頬にあててうっとりと呟く。誰かの幸せを心から祝福できる、そんな素直な心根がいとおしくて剣心は目尻を下
        げたが、次に薫が口にしたのは予想外の台詞だった。


        「わたしも・・・・・・剣心から求婚されるとは思っていなかったから、嬉しかったし」


        思いがけない発言に、剣心は担いでいた竹刀を取り落としそうになる。
        「どっ・・・・・・どうしてでござる?!薫殿は、拙者と夫婦になろうとは思っていなかったのでござるか?!」
        うわずった声で詰め寄ってくる剣心の狼狽え様に、薫は目を丸くして、そして可笑しそうに笑った。
        「違うわよー!そうじゃなくて・・・・・・ほら、その前から小さな求婚は何度かあったでしょう?」

        ・・・・・・確かに。
        はじめて「好きだ」と告げて、口づけを交わした日、この先の未来、何年何十年先もずっと一緒に生きようと約束をした。
        将来、子供が生まれたときのことを話しあったこともあった。
        既に、「そういうことになるんだろうな」と、互いに思っていたものだから―――

        「だからね、こう、なんとなーく自然な流れで、祝言をあげることになるんじゃないかなー、って思っていたの、勿論、それはそれで充分嬉しいと思っていた
        んだけれど」
        けれど、夜空が澄みわたる冬の日の帰り道、月明かりの下、剣心は薫に求婚した。薫にとってはあまりに突然のことで、とても驚いて、とてもとても、嬉し
        かった。
        「あの時も―――薫殿から言ってもらったからな。だから、夫婦になるときは、絶対に拙者からと思っていたんでござるよ」
        あの時、と言われて、薫はなんのことだろうと首を傾げたが、すぐに答えに思い至る。


        気がつくと剣心と薫は、川のそばに差し掛かっていた。あの「告白」は、ちょうどこの場所でだった。
        縁との戦いの前に、薫が「一緒に、ずっといたい」と言った場所。奇しくも、あの時と同じ、夕暮れ時である。


        「あの時は、なんだか『どうしても気持ちを伝えなきゃ』って思って・・・・・・必死だったのよね、今にして思うと」
        「拙者は、あの時のことは、今になって後悔しているが」
        「え?」
        思いがけず否定的な言葉が飛び出したものだから、薫は眉根を寄せる。彼女が誤解して怒り出す前に、剣心はすかさず釈明をした。
        「あの時拙者は、『ただいまと言ったのははじめてだ』などと言ったが・・・・・・そうではなくて、すぱっと『拙者もずっといたい』と言えばよかった」
        その言葉に、薫はぱちぱちと瞬きをすると、ぱっと笑顔になった。

        そう、この笑顔だ。
        何度も泣かせてしまった。でも、君はいつも気丈に涙をぬぐって、きらきらとした笑顔を俺に向けてくれる。
        この笑顔を、守りたいと思った。悲しい涙はもう流さぬよう、ずっと笑顔でいてくれるように―――つまりは、幸せにしたいと思った。それも、君と夫婦になっ
        た理由のひとつだ。


        「わたしは、剣心がああ言ってくれて、それだけでとっても嬉しかったんだけれど」
        「そう言ってもらえるとありがたいが・・・・・・今になって振り返るとなんとも中途半端だったというか・・・・・・あの頃は、かなり戸惑っていたでござるからな。は
        っきり答えられなくて、すまなかったでござる」
        昨年のことに対して律儀に謝る剣心の生真面目さに、薫はまた笑う。しかし、今の剣心の台詞の中に、ひとつ気になるものがあった。

        「ねぇ、戸惑っていたって、何のこと?」
        意味がわからずに、首を傾げて尋ねる。剣心はそんな薫に微笑んで、そして足を止めた。
        「あの頃、改めて自分の気持ちに気づいたから・・・・・・どうも、慣れない感情だったので、戸惑ったんでござるよ」
        薫も、足を止めて、不思議そうな目を剣心に向けた。
        もの問いげな色を浮かべる瞳を、剣心はじっとのぞきこむ。



        「愛しているとは・・・・・・こういう気持ちのことを言うのだな、と」



        薫の目が、驚きに大きくなる。
        剣心は、笑みを深くして、足許に竹刀を置いた。


        「自分が、誰かに対してそんな気持ちを抱くなんて思いもしなかったから・・・・・・その事に、戸惑っていたんでござるよ」


        君と出逢って、君を好きになった。
        時を重ねて、心が寄り添ってゆくのを感じるうちに、ああそうかこれが愛しているということか、と気づいた。

        あの頃はまだ、自分の中に生まれたその感情に戸惑っていたけれど。
        こんな罪人が誰かを愛することなど許されるのかと、思い悩んだけれど。


        今は、もう違う。
        こんなにも大きく育ってしまった気持ちを、手離すことなどできやしない。
        思い悩んでいる暇があるならば、少しでも多くこの想いを届けられるよう―――君に、伝えられるよう努力したほうがよっぽど建設的だ。


        剣心は、すっと手を伸ばし、薫の手をとった。
        細い指を、慈しむように包みながら、ゆっくりと、いつか言えなかったその言葉を口にする。




        「拙者も、薫殿と――― 一緒に、ずっといたい」




        あのときの薫の台詞をそのままなぞり、そして「一生ずっと、という意味でござるよ?」と、念を押すように付け加える。
        見開いたまま固まってした薫の目に、ふわりと涙が浮かんだ。

        「あっ・・・・・・あれ?やだ、変ね。そんな、わたし、泣くつもりじゃ・・・・・・」
        ―――きっとこれは、あの時流すはずだった涙だ。
        あの夕暮れの帰り道、なんの躊躇もなく君に応えていたら、きっと君は今のように、喜びの涙を流していたんだろうな。


        「・・・・・・遅くなって、すまない。やっと、言えたでござるよ」
        薫はぶんぶんと首を横に振り、遅いことなんてないわ、と涙に声を詰まらせながら言う。
        「一生、一緒にいるなら・・・・・・たった一年の遅れなんて、長い目で見ればきっと一瞬だわ」
        目を赤くしながらも、悪戯っぽくそう言う薫を、剣心は抱きしめた。

        君に好きだと言えるまで、愛していると告げるまで、どれだけ遠回りをしただろうか。
        これから君と過ごす、何十年かの人生に比べると―――たしかに、それは一瞬のことかもしれないけれど。それでも俺は、君と生きる瞬間のすべてをかけ
        がえのないものとして、大切に抱きしめていたい。



        「・・・・・・拙者の、妻になってくれてありがとう」



        耳元で囁かれて。それが先程お願いした「求婚の台詞をもう一度」に応えたものだと、薫は理解する。しかし―――
        「ちょっとだけ、内容が変わったみたい」
        「今言うなら、これが正しいでござろう?」
        「確かに、そうね」

        そして薫も、「わたしをお嫁さんにしてくれてありがとう」と、答えた。
        ふたりは顔を見合わせて笑うと、どちらからともなく瞳を閉じて、そっと口づけを交わした。









        いつかと同じように、肩を抱いて帰りたかったけれど、それには竹刀と道具袋が邪魔だった。
        「うちに帰ってから、ぎゅっとしてくれればいいわ」と薫が笑うので、後程その言葉に甘えさせてもらうことにしよう、と剣心は思った。



        君を愛おしいと想うこの気持ちは、言葉で伝えるだけではきっと追いつきやしないと思う。
        けれど、これからも君には精一杯伝えていきたい。

        君を守りたいということを。君にこんなにも救われているんだということを。
        君を―――誰よりも愛しているということを。




        でも、こんなにも大きな想いを、すべてを伝えるにはとても時間がかかるから―――
        だから、一生を使って、君に伝え続けよう。尽きることのない、この想いを。









        今日も、空は見事な茜色に染め上がった。
        やわらかな風が、頬をくすぐる夕暮れ時。ふたりはゆっくりと、家路についた。















        了。






                                                                                          2015.10.10






        モドル。