「次は、拙者にも注いでくれぬか?」
        「わたしにもお願い。予行演習だと思って」





        正月の屠蘇は、年の若い者から飲むのが習わしである。それに従って、新年の挨拶に訪れた弥彦と燕とに、先ずは振る舞われた。
        しかしながら、薫の台詞の後半部分の意味が判らず、年少のふたりはきょとんとする。別に、酌をすることに否やはないのだが―――

        「なぁ、予行演習ってなんのことだ?」
        剣心と薫は注がれた盃に口をつけてから、顔を見合わせてくすぐったそうに微笑んだ。
        「男蝶女蝶って、聞いたことある?」
        薫の言葉に、燕はぴんと来たらしい。驚いたように目を丸くして、ぱっと頬に赤く血がのぼる。一方で、まだ訳がわからず首を傾げている弥彦に、剣心と薫
        は具体的な説明を続ける。

        「祝言のときに、酒を注ぐ役目をする子供のことを、そう呼ぶんでござるよ」
        「弥彦と燕ちゃんに、それをお願いしようと思って」


        たっぷりの間を置いて、ようやくふたりの言わんとする事を理解して―――弥彦は燕と似たり寄ったりの反応を返した。









      光の街








        「ったく、まだるっこしい切り出し方するんじゃねーよ・・・・・・」
        「神社にお参りに行こう」と道場を出た四人は、薫と燕が前を歩き、男ふたりがその後をのんびりついて行くような形になった。
        年のはじめに思いがけない―――いや、このふたりはいずれそうなるだろうとは思っていたが、それにしても不意を突いての報告に驚かされた所為で、弥
        彦の口調はなんとなく憎まれ口のようになる。
        「いや、すまないでござる。いざ言おうとしてみたら、これが想像以上に照れくさくてな」


        昨年の年の瀬に、剣心は薫へ求婚し、薫はそれを笑顔で受けた。祝言は年が明けてから、ふたりが初めて出逢った季節に挙げようと決めた。
        前川道場をはじめ、世話になっている道場には年始の挨拶に行った際報告することにした。では、新年を迎えて最初に知らせるべき相手はやはり弥彦だ
        ろうと思ったのだが―――親しい間柄だからこそ、改まって告げるのがどうにも気恥ずかしい。どう言ったものかと散々頭をひねった結果、思いついたのが
        男蝶女蝶である。

        「どうにかして、話の流れでするりと報告できないかと思って・・・・・・でも、実際に祝言の席ではよろしく頼むでござるよ」
        「燕はともかく、俺は柄じゃねーと思うけど・・・・・・仕方ねーなぁ、一肌脱いでやるか」
        めんどくせーなぁと嘯く弥彦に、剣心は「かたじけない」と歩きながら軽く頭を下げる。弥彦はちらりと彼の方へ視線を走らせると、ふっと口許を緩めた。


        「・・・・・・よかったな、おめでとう」
        短いけれど、それは心からの祝いの言葉だった。
        剣心も、負けないくらいの感謝の念をこめて、「ありがとうでござる」と礼を返した。

        と、前を行く女性陣が手を振ってふたりを呼んだ。参道の入り口の手前、彼女たちの傍らに「甘酒」と書かれた赤い幟が立っているのに気づいて、弥彦は
        目を輝かせて駆け出した。


        「参拝しにきたひとに配っているんですって。今、剣心の分も貰ってくるわね」
        弥彦とすれ違う形で道を引き返してきた薫に、剣心は顔の前で軽く手をふってみせる。
        「いや、拙者はいいでござるよ」
        「そう・・・・・・? あったかくて美味しいのに」
        薫は小さな湯呑みに唇を寄せる。ふわりと鼻先をくすぐる湯気に、幸せそうに目を細めた。
        「不思議ねぇ、こういう所でいただくものって、どうしてこんなに美味しいのかしら」
        「気分の問題で、きっと味は同じでござろう」
        剣心の返した言葉が不満だったようで、薫は彼にむかって大仰に顔をしかめてみせる。
        「ひとくちあげようかと思ったけど、そんな意地悪を言うならあげないから」

        拗ねた口調が、子供みたいで可愛らしかった。
        そして―――そんなふうに君は言うけれど、いったい俺はこれまでに幾つ、君から大切なものを貰ってきたのだろうかと―――ふと思った。
        剣心は少し先にいる弥彦たちの方を見て、視線がこちらを向いていないか確認する。辺りの人目も大丈夫なようだったので、首をかたむけて薫に顔を近づ
        けた。


        ちゅ、と。彼女の唇に触れる。
        短い接吻は、甘酒の味がした。


        「・・・・・・拙者は、これで充分でござるよ」


        すぐに顔を離して、悪戯っぽく笑う。
        みるみるうちに耳まで赤くなった薫を見て、きっとショールに隠れている首筋も同じ色なんだろうな、と剣心は想像した。

        「・・・・・・神社の傍で、こんな事してもいいの・・・・・・?」
        「なに、正月だから神様も許してくれるでござるよ」
        「お正月だからこそ、ちゃんとしなくちゃいけないんじゃないかしら・・・・・・」


        薫はごにょごにょと口の中で呟くように言うと、残りの甘酒を飲みほした。
        湯呑みを返しに幟の方へ向かうと、弥彦が赤い顔を見て「甘酒で酔っ払ったのかよ」と笑った。











        神社に詣でた帰り道、河原で凧を揚げている一団を発見した弥彦は、「ちょっと見てくる!」と言って駆け出した。燕も慌てたように彼の背中を追って、河原
        に下りる。剣心と薫はふたり橋の上に残って、空に浮かぶ色とりどりの凧と、その下に流れる川とを眺めた。

        「いいお正月ねぇ」
        欄干に手をついてしみじみと言う薫に、剣心も「そうでござるな」と頷いた。
        上空にはいい風が吹いているのか、凧はのびのびと高く揚がっている。しかし、川の流れは緩やかで、とうとうと流れる川面には冬の低い太陽が穏やか
        な光を投げかけている。


        「神社では、何をお願いしたんでござるか?」
        先程、隣で手を合わせていた、薫の静穏な横顔を思い出しながら訊いてみる。薫は川から剣心へと視線を移すと、はにかむように微笑んだ。
        「えっと、お願いっていうより・・・・・・神様にお礼を言ってきたの」
        「お礼を?」
        「うん、昨年は良いご縁をありがとうございました、って。剣心と逢えたことに、感謝します・・・・・・って」
        その答えに、剣心は目をみはる。薫は恥ずかしそうに目線を川に戻したが―――はっとしたように、再び剣心のほうへ顔を向けた。

        「ねぇ、今気づいたんだけれど・・・・・・もうすぐ祝言なんだから、『末永くふたりで一緒にいられますように』ってお願いすべきだったかしら?」
        しまった、という風に眉を曇らせた薫に、剣心は「大丈夫でござるよ」と笑った。
        「それは拙者がお願いしてきたから、問題ないでござる」
        「ほんとに?剣心、そうお願いしたの?」
        「うん、本当に」
        じいっと彼女の目を見ながら頷くと、薫は安心したかのように肩から力を抜いた。「よかったぁ・・・・・・ありがとう」と言って、視線を前へ戻す。
        ふたり並んで、言葉を交わすでもなく、同じ景色を眺める。それが、とても心地よかった。



        感謝か、と。剣心は薫の「お礼」を胸の中で反芻する。


        確かに、あのとき君と出逢えたことは、神様がくれた奇跡かもしれない。
        けれど、俺はむしろ、そのまま君本人に感謝を捧げたい。

        俺が抱えてきた後悔や、犯してきた罪の数々を知っても。突き放しても危険な目に遭わせてしまっても。それでも君は、俺に笑顔を向けてくれた。手を、離
        さないでいてくれた。
        そのことに、俺は何度も救われてきた。君の存在が、傍にいてくれることが、俺にとっての「救い」そのものになった。


        「・・・・・・なぁに?」
        欄干に置かれた小さな手に、自分の手を重ねる。
        薫が首を傾げてこちらを見たが、何も言わずに微笑んでみせると、彼女も同じように笑った。

        君は―――知っているのだろうか。
        こんなにも俺が、君に救われていることを。


        後悔も罪も手放さず、この身に背負ってゆくと決めたけれど、もう俺はその重さに苦しんで膝をつくことはないだろう。
        君の笑顔を守るためならば、俺は躊躇わずに前を向いて歩いてゆける。

        自分が生きていることすら、罪深いと思っていた。けれど、君は「一緒に生きてゆきたい」と願ってくれた。
        だからもう、自分の命を否定したりはしない。俺の「生きる」という意志を支えてくれているのは―――間違いなく君だ。



        「・・・・・・きれいでござるな」
        まばゆく輝きながら流れる川を眺めて、素直な感想を口にする。水面に太陽の光を乗せて、流れはゆったりと海へと向かう。
        普段から目にしているその川が、今日は特別美しかった。黄金色の輝きは、まるでこの先の日々を照らす希望そのものに感じられた。
        「今年は、きっといい年になるわね」
        「うん、拙者もそう思っていたところでござるよ」
        そっと首をかたむけて、剣心は薫の髪に頬を寄せた。つややかな黒髪は、川面を渡る風にひんやりと冷たくなっていた。

        「そろそろ、帰ろうか」
        「そうね、ちょっと寒くなってきたかも」
        もたれかかっていた身体を欄干から離すと、薫は河原にいる弥彦と燕にむかって「帰るわよー!」と叫んだ。凧を貸してもらった弥彦は糸を握り締めて空を
        見上げたまま微動だにしなかったが、剣心が「帰ったら、甘酒を作るでござるよー」と呼びかけると、あっさりと他の子供に譲るのが見えた。










        帰り道は、弥彦と燕が前を歩き、剣心と薫がその後ろを歩く形になった。
        前を行くふたつの小さな背中。以前より、弥彦は少し背が伸びたかな、と剣心はぼんやり思う。育ち盛りだ、きっとこの一年でますます大きくなるだろう。い
        つか追い越されるのかなと思うと、なんだかくすぐったい感じがした。こんな事を考えるのも、一年の始まりだからこそなのかもしれない。

        「旅暮らしのときは、別段意識もせず過ごしていたが・・・・・・正月とは、いいものでござるな」
        「ほんと、何もかもが新しくなるみたいな、清々しい感じがするわよね」
        「ああ、何もかもが、新たに生まれ変わるみたいだ」
        だからだろうか、見慣れた街の風景すら、清新な空気をまとって輝いているように見える。先程見た、光を浴びた川面に、負けないくらいに。


        いや―――それはきっと「正月だから」というだけでなく、君が隣にいるからだ。
        年が明けて、もうすぐ君と一緒になる。夫婦になって、君とともに歩いてゆける。そのことがこんなにも嬉しくて、目に映る風景までもが輝きに満ちて見えて
        くる。

        我ながら舞い上がりすぎかとも思うが、隣を歩く薫の横顔を窺い見て、なんとなく安心した。柔らかな笑みの形をとった唇に、きらめきを湛えた瞳―――彼
        女の目にも、世界は同じように映っているのかもしれない。


        剣心は、手をのばして細い指を捕まえた。包みこむようにして握ると、薫が戸惑ったように顔を覗きこんできた。
        「振り向いたら、見られちゃうわよ?」
        前を行く弥彦たちを気にする薫に、剣心は「まぁ、正月だから大目に見てもらおう」と、さらりと返す。またしても「正月だから」を言い訳にする剣心に、薫は
        「都合良すぎでしょう」と笑った。きらきらした笑顔が、とても綺麗だった。


        弥彦たちが帰って、今夜ふたりきりになったら訊いてみよう。
        この景色が、君の目にはどんなふうに映っているのかを。








        手を繋いで歩く、元日の帰り道。
        これからは、こうしてふたりで歩んでゆく。



        明治十二年の正月、街は清らかな始まりの気配に満ちていた。












        了。






                                                                                        2015.01.03






        モドル。