「みんな、お疲れ様ー! 気をつけて帰るのよー!」
航吉の友人たちは、元気よく「はーい」と答えて神谷道場の門を出た。
彼らを見送った薫は、やれやれと呟きながら家の中へと戻る。
「あら、剣心、もう後片付け終わっちゃったの?」
居間の襖を開けると、そこには火鉢の炭をつつく剣心の姿があった。
あの後、剣心と薫は「道の修復」と「ご近所への謝罪」を終えた子供たちを「よく頑張りました」とねぎらい、そして全員を道場に招いて剣心の作った汁粉
を振舞った。叱られてしおれていた子供たちはそれですっかり元気を取り戻し、賑やかに騒ぎながら鍋を空っぽにし、ついでに道場を見学して―――
今、帰路についたところだった。
「ごめんなさいね、すっかり任せちゃって」
「いやいや、このくらい何でも。それより、子供らが喜んでくれてよかったでござるな」
「そうね・・・・・・みんな『いい事』だと思ってやってたんだし、これで帳尻があえばいいんだけれど」
早とちりとはいえ、彼らに悪気はなかったのだ。そこをがっつり叱りつけた薫は、少しやりすぎたかしらと反省していた。しかし、その叱られた子供の中に
はどういうわけか「門下生になりたい! 剣術面白そう!」と言い出した子もいたので―――結果として、対応は間違っていなかったのだろう。そう、結論
づける。
「はー・・・・・・それにしても、他人様の子供にあそこまでお灸を据えることはなかったかしらねー。つい、頭に血がのぼっちゃって」
「でも、航吉の祖父殿は褒めていたでござるよ」
「わたしを?」
「ああ、叱り方が堂に入っていると。将来よい母親になれるとお墨付きをいただいたでござる」
まるで自分が褒められたかのように、剣心は嬉しそうに笑った。その言葉に、薫はもの言いたげな表情をしたが―――何も言わず、剣心の隣に腰をおろ
す。薫は少しの間俯いて、膝の上に乗せた自分の指先を見つめていたが、やがて、思い切ったように口を開いた。
「ねぇ剣心」
「ん?」
「剣心は、子供、男の子と女の子、どっちが欲しい?」
「そりゃ、両方でござるよ」
直ぐにそう答えた剣心に、しかし薫は食い下がった。
「でも、双子じゃない限り大抵はひとりずつでしょ。最初はどっちがいい?」
「おろ、そうでござるなぁ」
剣心は火箸を置いて真剣に考える。
道場の跡取りのことを考えると、やはりまずは男の子だろうか。いやしかし、薫は女の身で立派に一門を継いでいる。そうなると、一姫二太郎ということ
で女の子のほうがよいのだろうか・・・・・・
あれこれ悩んだ末に、剣心は結局「決められないでござるなぁ。と、いうかどちらでも構わないでござるよ」と、答えた。
「男でも女でも、どちらでも嬉しいしどちらでも大切に育てるでござるよ。丈夫に生まれてくれれば、それでいいでござる」
剣心の答えをじっと待っていた薫は、その言葉に嬉しそうに微笑んだ。
「そうね、わたしもそう思う」
「うん」
「夏になればどちらかわかるから、楽しみにしていてね」
「・・・・・・え?」
呟いた形のまま、剣心の唇が驚きに固まる。
隣に座る薫の顔をまじまじと見つめて、その視線を彼女のお腹のあたりに落とした。
弥彦は何と言っていた?
そうだ、昨日薫は調子が悪そうだったと。
先程、転ぶことに過剰に反応した薫。
今日は何故か出稽古を休んでいた。
休んで、薫が行った場所は―――
「そんなにじーっと見ても、まだわからないわよ」
薫は剣心の視線を感じて、照れくさそうに自分のお腹を撫でた。
そして、はにかみながら、剣心の目を見つめる。
「今日、お産の先生のところに行ってきたの。そうしたら、間違いありません、って」
「・・・・・・あの、薫。それは、つまり」
「生まれるのは、八月ですって」
剣心の顔が、みるみるうちに紅潮する。
唇が震え、そこから―――声にならない声がこぼれる。
「・・・・・・!」
がば、と。
剣心は薫を抱きしめた。
「・・・・・・っ」
「・・・・・・けん、しん?」
「った・・・・・・」
「あの、剣心」
「・・・・・・った、ははは、やっ・・・・・・たぁ!」
言葉に、ならなかった。
こみあげた歓喜の想いは、言葉よりももっと素のままの声―――叫びになって飛び出した。
「ははは、そうか、子供が・・・・・・すごい、凄いでござる、ありがとう薫殿!」
こんなに直截的に、感情を声に行動に表す剣心は初めてだった。薫はぎゅうぎゅうと腕に抱かれながら、予想外の反応に驚いて目を丸くする。
「男の子か女の子か、どちらでござるかな。どんな名前がいいか・・・・・・良い名を考えなくてはいけないでござるな・・・・・・」
喜びが、あとからあとから湧いてくるのが止まらない。それを素直に声に出して紡ぐ剣心に、薫の頬に笑みが浮かぶ。
きっと喜んでくれると思っていた。が、こんなふうに、それこそ子供のように喜ぶとは思わなかった。だから―――薫は余計に嬉しくなった。
「あはは、もー剣心ってば気が早い! 生まれるのはまだ何ヶ月も先なのにー!」
「いやいや、そんなのきっとあっという間でござるよ」
「そりゃそうかもしれないけど、それにしても早すぎ!」
剣心の反論にはしゃいだ声で笑って答えると、ぐいっと身体を持ち上げられるようにして、唇を重ねられた。
長く、熱っぽい口づけ。
幸福感と、甘い眩暈に酔ってしまいそうで、薫は必死に剣心にすがりついた。
「・・・・・・ありがとう」
唇の上でそう囁かれて、薫はそっと瞼を開けて僅かに彼から離れる。睫毛が触れそうな距離で、剣心の顔を見て―――目をみはった。
「泣いて、いるの?」
剣心は、笑顔だった。嬉しそうに笑っていたが、その瞳は濡れていて―――
「・・・・・・泣いていないでござるよ」
もう一度引き寄せられ、頭を肩口に押しつけられ、視界を閉ざされる。
顔は見えない。けれど、小さく震えているのが伝わってくる。
薫は、そろそろと手を伸ばして、剣心の背をきゅっと抱いた。優しい腕の感触に、剣心は震えを落ち着けるようにゆっくり大きく息を吐く。
「ありがとう・・・・・・」
絞り出すような声に胸を突かれ、薫も泣きそうになる。けれど、必死に涙をこらえながら、明るい声で答えた。
「剣心こそ、どうもありがとう」
「薫・・・・・・?」
「わたしが、母親になれるのは、剣心のおかげだもの。だから、ありがとう」
剣心は、顔を上げないまま、ぶんぶんと首を横に振る。
礼なんて、それは、こっちの台詞だ。
自分が生きているだけで、それだけで罪深いと思っていた。
新しい時代のためと言いつつ、結局、自分がその為に出来るのは命を奪うことだけなのか、と。
けれど、薫のなかに宿った小さな生命は、確かに彼女と自分が紡いだもの。
奪ったのではなく、与えた。新しく、生まれる命。
それは君が、どんなに悲しい思いをしても何度涙を流しても、俺の手を離さないでいてくれたから―――
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
それ以外は、言葉にならない。
薫は、剣心が何度も何度も繰り返す礼の意味について、尋ねはしなかったが、なんとなく感じとってはいた。
だから、何も言わず、ただ剣心に身を任せて瞳を閉じる。
やがて、ぼんやりと脳裏に栞の顔が浮かんだ。
今日はそれどころじゃなくなっちゃったけど、今度お産のあれこれについて相談にのってもらおう。なにしろ彼女は四人も産んだ大先輩だ。次に産まれる
赤ちゃんには、自分たちの子供の友達にもなって欲しいし―――
そんなことを考えながら、薫は剣心の背中を優しく撫でた。
「あらあら、困りましたねぇ。お父さんは、随分と泣き虫ですねー」
「だから、泣いていないでござる」
「はいはい」
★
その晩、無事に航海を終え久しぶりに自宅に帰ってきた航吉の父親は、戸口の前に立ち随分と賑やかな気配に首を傾げた。
そして戸を開けて、出迎えた妻と子供たちの後ろに栞の父親が立っているのを認めて、仰天した。
航吉の父は、驚きのあまり言葉を失い何度かぱくぱくと口を開閉させ―――ようやく言えたのが「あ、あけましておめでとうございます」だった。
明るい笑い声がはじけ、和やかな夕餉が始まる。
「来年は母さんも連れてこよう」という父の言葉に、栞は笑顔で頷いた。
凍てついた空は澄んで晴れ渡り、冬の星座が瞬きながら家々を見下ろす。
下界を覆う雪に煌々と月の光は降り注ぎ、夜を白く照らしている。
夜が静かに更けてゆくなか、灯りがともされたそれぞれの屋根の下、人々は家族がともにいられることの幸福感を、改めてかみしめる。
暖かな雪が街を抱いた、明治十三年、初春。
「初春雪だるま事件」 了。
2013.01.05
モドル。