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        馨の言葉の意味がわからず、静馬は一瞬ぽかんとした顔をする。
        それに構わず、馨は剣先をまっすぐ静馬に向けた。
        「静馬殿、構えて!」
        剣心の声が飛ぶ。静馬はそれにつられて、思わず竹刀を素早く持ち替える。
        その、流れるような慣れた手つきに、薫はおやっと目をみはった。


        「始めっ!」


        続けて剣心の声が響く。


        「やあっ!」


        馨が真っ正面から打ち込んだ。
        彼女なりの、渾身の力をこめて。

        静馬はその一撃を難なく受けて、反射的に、剣士の本能ともいえるような動きで竹刀を返した。鍔先に、すくい上げるように打ちこむ。
        馨の小さな手から竹刀が転がり落ちた。反動に、たまらず崩れるように膝をつく。


        「馨様!」
        「勝負あり!」
        剣心が高らかに宣言する。静馬はそれも耳に入らない様子で竹刀を投げ捨て、慌てて馨に駆け寄った。
        「申し訳ありません馨様!大丈夫ですか!?お怪我はありませんか!?」
        「・・・・・・静馬の勝ちよ」
        「え?」
        馨は自分を助け起こそうとする静馬を、見上げるようにして、言った。



        「わたしに勝ったんだから、わたしのこと、お嫁さんにして、ください・・・・・・」
        


        最後のほうは、消え入るような声だった。
        顔を真っ赤に染めて、それでもしっかり彼を見て、必死の面持ちで。
        「かおり、様・・・・・・」
        予想だにしなかった言葉に、静馬は呆然とする。しかしそれは一瞬のことで、彼はすぐに何かを決心したような顔になり、馨の瞳をまっすぐに見据え
        た。


        「申し訳ありません。それは、私のほうから言うべきでした」
        「え・・・・・・」
        「馨様、どうか―――私の妻になってください」



        馨の、緊張の糸が切れた。
        両目からぼろぼろ大粒の涙が溢れ出し、子供のように泣きじゃくる。そんな馨を、静馬は優しく抱きしめた。







        「・・・・・・これって、剣心が仕組んだの?」
        二人の様子を眺めながら、薫は驚きの色が浮かぶ顔で訪ねた。
        「静馬さんって、剣が使えたんだ・・・・・・どうして剣心は知っていたの?」
        「なに、薫殿と馨殿が仲良く連れだって歩いている間、お供の拙者は静馬殿と歩いていたでござるからな。こちらはこちらで、色々話していたんでござる
        よ。そこで、出身の話も聞いたのでござる」


        静馬は浪人の家の生まれだった。

        明治になる前の話である。もともと静馬の実家は加納屋と近所付き合いがあったのだが、その頃の田添家は酷く困窮していた。その窮状を心配した加
        納屋の主人が、静馬の奉公を提案した。静馬の両親は幕末の不安定な政情も考慮し、息子を商人の家に預けることを決めた。
        そうして静馬は、一度苗字を捨て、町人になった。

        「加納屋に入るからには他の使用人の者達に倣い、一人前の商人になれるよう励むように。しかし、剣の教えだけは忘れてはならぬ。変事があったと
        きには馨様をお守りできるよう、ゆめゆめ鍛錬を怠らないよう」

        それが、家を出るときの父からの言葉だったという。



        「注意して見ると、静馬殿の手には竹刀だこがあった。これは父上殿の教えのとおり、研鑽を続けているのだろうと思ってな」
        薫は、感心して大きく息をついた。剣心の観察力にもだが、静馬の努力にもだ。
        店に奉公しながら、彼は僅かな時間を割いて剣の稽古を続けてきたのだろう。先程の彼の動きを見ればわかる、竹刀を持った途端反射的に身体が動
        くくらい、静馬は懸命に剣の腕を磨いてきたのだ。それは生半可な決意でできることではない。

        それは馨を守るための剣だった。
        主家の娘である彼女を、そして―――誰より大切な女性である彼女を。        

        静馬の胸に身体を預けわんわん泣いていた馨は、顔を上げて、今度は薫に駆け寄り抱きついた。
        「薫さん、ありがとう・・・・・・薫さんのおかげで、わたし・・・・・・ほんとにありがとう!」
        薫は自分も目を潤ませながら、馨の背を抱きしめた。その様子を見ながら剣心が呟く。
        「これに関しての提案は拙者なのだが」
        馨はそれを聞き逃さず、ぎろりと剣心を横目で睨んだ。
        「なによ横から細かいことをうるさいわね、剣心さんもわたしに抱きつかれたかったの?」
        「いや、それは御免こうむるでござる」


        剣心があからさまに嫌な顔をしたので、薫と馨は声をあげて笑った。
        そっくりなふたつの笑い声は、澄んだ青空に高く昇って溶けていった。







        ★







        再度馬車を走らせて剣心と薫を神谷道場まで送り届けた馨は、昨夜の憂い顔とは程遠い、清々しい表情をしていた。


        「静馬とふたりで、両親と話してみるわ。これから難しいこともあるかもしれないけれど、きっと大丈夫よね。わたし、薫さんと同じ顔なんだから」
        馨は幸せそうな中にも、どこか決意したような色が見える眼差しで言った。

        「うん、わたしたちも応援してるから・・・・・・ねぇ馨さん、これからも会えるよね?」
        「勿論よ!第一、薫さんにはうちの店で仕立てた白無垢着てもらわなくちゃいけないんだから。祝言の日取りが決まったらすぐに教えてね?」
        「え、嬉しいんだけどうちそんな贅沢は・・・・・・」
        「なーに言ってるの『さーびす』よ、お金取るわけないじゃない!仕方ないから剣心さんにも最高級の紋服用意してあげるから」
        「拙者はついででござるか?」

        剣心のぼやきに馨はしゃあしゃあと「当ったり前じゃない」と返した。かくん、とうなだれる剣心を見て、馨がからからと笑う。どうやら剣心を苛めるのがす
        っかり癖になってしまったらしい。




        「二人とも、ほんとうにありがとう!それじゃあ、またねー!」
        馨の乗った馬車が遠ざかり、小さくなって見えなくなるまで、剣心と薫は手を振り続けた。
        二人の目にも、馨が身を乗り出して千切れそうなほどに手を振っているのが映っていた。

        「馨殿と静馬殿、これからが大変でござろうな」
        馬車が走り去った先を眺めながら剣心が言った。
        主人の娘と使用人の恋、当然「身分違い」が問題になるだろう。
        しかし薫は、馨の両親の包み込むような人柄を思い出していた。遠い江戸の頃、加納屋に静馬を迎えた彼らなら、娘との仲も認めてくれるのではない
        だろうか。
        「そうね、でもきっと大丈夫よ。あのふたりなら絶対幸せになれるわ」
        「そうでござるな。馨殿は、一度腹を決めたらそう簡単は諦めぬだろうし」
        剣心は意地悪く笑う馨の顔を思い出し、肩をすくめた。そして―――おもむろに表情を改め、ひとつ咳払いをする。


        「では、あのふたりに先を越されぬよう、拙者たちも決めてしまおうか」
        「え?何を?」
        「祝言の日取りを」


        薫は大きな目を更に大きくして、剣心を見た。
        剣心は僅かに赤くなった顔で、照れくさそうに視線を逸らす。

        「せっかく花嫁衣裳を都合すると言ってくれたのに、まごまごしていて馨殿の気が変わっては大変でござるしな」
        明らかに照れ隠しの憎まれ口を叩く剣心に、薫は驚いた顔を晴れやかな笑顔に変えて、大きく頷いた。
        「うんっ!大賛成!」
        薫は剣心の手をとり、子供のような仕草で引っ張った。
        「わたしたちが初めて出会った頃にしようって、言ってたもんね。そのあたりでいい日を選びましょうよ」
        早速暦を確かめなくては、と、薫は踵を返して玄関に向かおうとした。しかし、剣心は薫の手をきゅっと握り返し、それを制する。
        そのまま小さなな手を引き寄せられ、ふたりはごく近い距離で向き合う姿勢になる。


        「馨殿に叱られたでござるよ。薫殿のことを、たくさん泣かせたのだろう、と」
        「剣心・・・・・・?」
        引き寄せた薫の手を、剣心は両手で包む。
        語りかける声と注がれる眼差しは思いがけず真剣で、薫はまばたきを忘れたように剣心の瞳から目を離せなくなる。



        「その、今更でござるが・・・・・・薫殿には今まで怖い思いや辛い思いを沢山させてしまって・・・・・・済まなかった。だけど、これから先は必ず、幸せにする
        から・・・・・・」
        「・・・・・・うーん、剣心、それはちょっとどうかしら」



        え、と剣心が驚いた顔をする。
        まさかここで否定的な言葉が返ってくるとは微塵も想像していなかった剣心は、いきなり不安そうな表情になった。それを見て薫が、悪戯っぽく笑う。

        「あなたがわたしを幸せにするだけじゃ一方的で不公平だもん、だからわたしも剣心のこと幸せにするの。そうやってお互いにのほうが、ふたりで沢山た
        くさん幸せになれるでしょ?」
        「薫殿・・・・・・」
        剣心が情けない声をあげた。
        「驚かさないでくれ・・・・・・馨殿の意地悪がうつったのでござるか?」
        「あはは、ごめんね、つい・・・・・・」
        薫は可笑しそうに笑ったが―――その瞳に、ふわりと涙が溢れた。


        「あ、あれ?変ね今更・・・・・・改めて言われると、なんだか・・・・・・」
        それ以上は、言葉にならない。
        剣心は薫の肩を優しく抱いて、家に入ろうと促した。



        白無垢を着るその日にも、薫はこんなふうに暖かい涙を流すのだろうか。
        剣心は、「いっぱい泣かせてきたんでしょ?」という馨の一言を思い出す。




        だいじょうぶ。もう、泣かせはせぬよ。






        これから薫が流す涙がすべて幸せな涙であろうことを、薫によく似た馨の面影に向かって、剣心はそっと誓った。















        (friendly girl  了)





                                                                                 2012.05.31










        モドル。