「『ただいま』って言葉を口にしたのは、流浪人になってからはじめてだったって・・・・・・剣心、そう言ってくれたわよね」




        薫がそんなことを口にしたのは、今がちょうど空が夕焼けに染まり出す頃合いで、しかも二人きりの帰り道だからだろう。
        決戦前日の告白の情景を、そのまま再現したかのような茜空の下、剣心は「・・・・・・言ったでござるな」といささか歯切れ悪く答えた。

        あれは当時の自分にとっては精一杯の告白だったけれど、今振り返ると回りくどい言い方が却って恥ずかしい。いや、「当時」といっても、実はあれから
        まだひとつきくらいしか経過していないわけで、むしろ「ほんの少し前の出来事」ではあるのだが―――そのほんの少しの間で、色々なことが変化した。


        剣を握ること、罪を償うことへの答えも、巴に対する謝罪の念も感謝も想いも。
        君と俺との関係性も、とても大きく―――驚くほど大きく、変化した。








   
    コラージュ







        縁一派との闘いが落着したのち、剣心と薫はふたりで京都へと向かった。
        そして此度の顛末を巴の墓前に報告した日の夜、剣心ははじめて薫に「好きだ」と告げた。

        互いの心の在処はとっくに知っているつもりだった。しかし、言葉にして伝えることで、ようやく想いが届いたことを実感できた。嬉しさの涙を目に浮かべな
        がら「わたしも、大好き」という言葉を返してくれた薫を、剣心はやはり泣きそうになりながら抱きしめた。
        そして、「こんなに互いに幸せな気持ちになれるのなら、もっと早く口に出して伝えればよかった」とも思った。しかし、いろいろな紆余曲折があったからこ
        そ、この言葉はこんなにも胸をふるわせたのだろう。それに、何かにつけてうだうだと悩んで立ち止まってしまう剣心にとっては教訓にもなった。伝えるべ
        き言葉は迷わずにまっすぐ伝えないといけないんだ。そうでないと―――永遠に伝える機会を失う可能性だってあるのだから。


        斯くして、その夜を境に剣心と薫は「恋人同士」という間柄になった。
        ふたりは程なくして京都を発ったが、晴れやかな気持ちの所為もあってか、長旅にもかかわらず帰路の足取りは軽かった。道中、剣心は何度か薫の手を
        引いて歩き、薫は「怪我人があんまり気を遣わないで」と言ってはにかみつつも、素直にその手に甘えた。

        そして今夕、周りの景色はすっかり見慣れたものになり、神谷道場はもう目と鼻の先である。このぶんだと急がなくとも日が落ちる前には帰着できそうだ。
        そうなると、今度はふたりきりで歩く時間が終わってしまうのが惜しくなる。なんとなく、速度を落として歩いていたところで、ふいに薫がこう言った。



        「『ただいま』って言葉を口にしたのは、流浪人になってからはじめてだったって・・・・・・剣心、そう言ってくれたわよね」



        薫がそんなことを口にしたのは、今がちょうど空が夕焼けに染まり出す頃合いで、しかも二人きりの帰り道だからだろう。
        決戦前日の告白の情景を、そのまま再現したかのような茜空の下、剣心は「・・・・・・言ったでござるな」といささか歯切れ悪く答えた。

        「あの言葉、嬉しかったなぁ」
        「そうでござるか?」
        あれは当時の自分にとっては精一杯の告白だったけれど、今振り返ると回りくどい言い方が却って恥ずかしい。剣心は困ったように首をすくめたが、薫は
        構わず食い下がる。

        「嬉しいに決まってるわよ!だって『ただいま』は、それだけで終わらない言葉でしょ?」
        「え?」
        「ほら、『ただいま』と対になっている言葉は?」
        突然のなぞなぞのように問われて、剣心はきょとんとしながら「・・・・・・おかえり?」と答える。すると薫は図に当たったとばかりに顔を輝かせた。



        「そう!わたしも『おかえりなさい』って言葉、ずっと使わないでいたんだもの」



        そう言われて、剣心ははっとする。
        薫は母親を亡くしてから、父一人子一人で暮らしていた。しかし先の戦争で、父親も帰らぬ人となった。
        道場での独りきりの暮らしが始まり、薫が「おかえりなさい」を言う相手は誰もいなくなった。
        剣心が、東京に来るまでは。


        「おかえりって言える相手がいるのって、とても嬉しいことなんだって・・・・・・剣心の言葉を聞いて、改めてそう思ったの。それにね」


        ふと、薫が足を止めた。
        つられて剣心も立ち止まり、薫の顔を見つめる。



        「その相手が剣心でよかったなぁ・・・・・・って」



        夕映えに染まった薫の頬が、やわらかくほころぶ。

        「・・・・・・そうでござったか」
        「うん、そうよ」
        「拙者はあの時、おかえりを言う側の想いまで、考える余裕がなくて」
        「でも、今知ったでしょ?」
        「ああ、もう知っている」

        そして、伝えるべき言葉は迷わずまっすぐ伝えるべきだということも、もう知っている。



        「拙者も・・・・・・おかえりを言ってくれる相手が、薫殿でよかった」



        照れくさげに顔を見合わせてから、ふたりは再び歩き出す。
        できればあの日のように肩を抱き寄せたいところだったが、利き手が怪我で動かせない状態だとどうにも危なっかしいので、剣心はそれを断念した。

        「・・・・・・ところで薫殿、喜兵衛は?」
        「喜兵衛?!やだ、あの人がうちにいたのは一瞬だったし、ただいまおかえりって言い合うような感じでもなかったわよ!揚げ足取るようなこと言わないで
        よー!」
        「いや、すまない。拙者の前におかえりを言っていた相手がいたら、面白くないなと思って」
        「・・・・・・それって、やきもち?」
        「うん、やきもちでござるな」
        首から上が真っ赤に染まったように見えるのは、夕焼けの所為だけではないだろう。薫は両のてのひらで頬を挟んで隠しながら、「剣心からそんなこと言
        われるなんて、わたし夢でも見てるんじゃないかしら・・・・・・」と、途方に暮れたように言った。


        どの家でも夕飯の支度を始める時間なのだろう、美味しそうな香りが夕方の風にのって漂ってくる。やがてふたりは見慣れた門の前で旅ごしらえの足を止
        めた。
        ―――不思議なものだ。この家に来てからまだ一年も経っていないのに、こんなにも懐かしい気持ちになるなんて。
        感慨にふける剣心に、薫は「いい匂いがするわね、ご飯作ってくれているのかしら」と囁く。剣心も「燕殿か、操殿でござるかな」と小声で返して、そしてふた
        りは「せーの」の合図で声を揃えた。



        「「ただいまでござるー!」」



        語尾を揃えた二重唱は、道場にいる皆に届いたようだ。打てば響くというように、母屋のほうから賑やかな足音が近づいてきて
        「おかえりー!」
        「おかえりなさい!」
        「ふたりともお疲れさまー!」
        明るい笑顔とともに、いつもの面々が剣心と薫を出迎えた。

        「意外と早かったじゃねーか、どうだ?いい旅だったか?」
        「剣さん怪我の方はどうですか?あなたちゃんと手当てしてくれてた?」
        「いい時間に帰ってきたなぁ、もうすぐ夕飯だぞ」
        「赤べこの皆は?元気だった?」
        「疲れたでしょう、おふたりともまずは一息ついてくださいね」

        語調や内容は違えども、どの声もふたりが無事に帰ってきたことを喜ぶ気持ちと、長旅をねぎらう思いに満ちていた。皆に囲まれた剣心の胸に、神谷道場
        を前にしたときの懐かしさと同じ感情がこみ上げる。それは「帰ってきたのだなぁ」という感覚だ。
        帰る場所があって、迎えてくれる仲間もいる。自分にこんな居場所ができるだなんて、ほんの一年前には想像すらできなかったのに。


        ―――そうだ、ほんの一年前の俺は「こんな命などいつ消えてもいい」と思っていた。
        それで誰かが助かるとしたら、俺の命などいつ投げ出してもいい。自分以外の誰かのためにこの命を役立てられるならば、それでいいんだ、と。

        けれど、この地に辿り着いて君と出逢って様々な出来事を経た今、俺は「生きたい」と思っている。生きて、これからもずっと君に「ただいま」を言う相手でい
        たいと、そう思っている。

        たとえば「好きな人を守るためなら死んでもいい」と思うのも、きっとひとつの真実だろう。でも今の俺は、君のために死ぬよりも、君のそばで生きたい。
        だって、俺が死ぬということは、君を泣かせてしまうことだから。それに、君の隣で生きるということは、ずっと君のことを守っていけるということだから。


        誰かのために死ぬことばかり考えてきた俺に、君は気づかせてくれたんだ。
        誰かのために生きることの意味を、俺に―――


        ふいに、淡い桜色が視界をよぎった。目線を下に落とすと、それは上がり框の前に屈みこんでいる、薫のリボンの色だった。
        「薫殿?」
        「待ってね、すぐほどいてあげるから」と、薫は剣心の草鞋の紐に指を伸ばす。
        「おろ、大丈夫でござるよ、自分でできるから・・・・・・」
        「片手じゃ時間がかかるでしょう?いいから、このくらい任せて」

        ふたりのやりとりを目にした左之助がひゅーっと口笛を吹き、すかさず恵が彼の耳をむんずと掴んで引っ張った。
        「あ痛てててて!おいこら女狐!ちったぁ手加減・・・・・・」
        「馬鹿に手加減なんてしたら際限なく調子に乗るでしょう?お邪魔虫はおとなしくしてらっしゃい。ふたりとも、もうすぐご飯ですからね」
        「支度できるまで、もう少し待っててくださいね」
        「あ、燕、なんか手伝うことあるかー?」
        玄関に集合した一同が、今度は一斉に廊下の向こうへと散ってゆく。これからしばらくはまた大勢で賑やかに過ごす日々が始まるのだ、少しの間でもふ
        たりきりにしてやろうという配慮なのかもしれない。剣心と薫は、顔を見合わせて微笑んだ。


        「ねぇ剣心」
        「うん?」
        「わたしからも、言わせてね」
        「え?」
        「・・・・・・おかえりなさい、剣心」


        つい先程まで、旅路を共にしていた相手が口にする言葉ではないかもしれないけれど。
        しかし、そのあたたかい響きに、剣心は思わず頬をほころばせる。

        おかえりなさいを言える相手がいることが嬉しいと、言ってくれた君。
        俺も、ただいまを言える相手が君だったことが、とても嬉しかった。


        それはささやかな事かもしれないけれど、そんな相手に出逢えることは、実は得難い奇跡だ。




        「・・・・・・ただいまでござる」




        それを受けて、薫がにこっと笑う。
        夕暮れ時、薄暗くなってきた玄関で、そこだけ光が射しているような笑顔に、剣心は目を細めた。


        台所からの香ばしい香りに、響く皆の笑い声。
        ここには仲間たちがいて、かけがえのない君がいる。

        ずっと守ってゆこう。
        大切なこの時を、帰るべきこの場所を。







        君のとなりで―――いつまでも、ずっと。












        了。






                                                                                               2021.09.18






        モドル