少女たちは大人になるために、恋をして涙して幻のように透明な夏を過ごす。
        夏の光を細い身体の中に詰め込んだ君は、神様がつくった女の子の最高傑作。










        
BREEEEZE GIRL










        「川遊びに行こう!」と言いだしたのは、前川道場の年少の門下生のうちのひとりだった。
        ゆらゆらと陽炎の立つ暑さだ、少年たちは一も二もなく賛成し、近所の小さな男の子や女の子たちもそれに加わった。
        出稽古後の薫と弥彦も気がついたら子供たちの群れに巻き込まれたかのような具合に、川への道へと走っていた。そして。




        「けんしーん!」


        冷たい水に脚を遊ばせる薫が、ご機嫌な声で河原に座る剣心に叫ぶ。
        「今ね!魚がいたのー!」

        たまたま薫たちと道で行きあった剣心は、それでは一緒にと子供たちの一団について来たものだが、川には入らずに引率の保護者よろしく幼い門下生
        達が歓声をあげるのを眺めていた。遮るものがない河辺にじりじりと太陽は照りつけ、水しぶきに濡れた河原の岩をあっというまに乾かしてしまう。
        この暑さだ、彼らと一緒に水遊びというのも楽しそうだが、いかんせん自分の半分以下の年齢の子供たちに混じって、というのはさすがに気後れする。



        まぁ、見ているだけでも充分楽しいしな―――



        膝の近くまで紺の袴をたくしあげてはしゃぐ薫に手を振って応えながら、剣心はそう思った。
        強い日差しの下、川面に落ちた光が反射して薫の細い脚をさらに眩しく見せる。
        太陽の光が白い頬に扇形の睫の影を作り、形のよい唇から時折歓声がこぼれ、屈託のない笑顔は陽光に負けないくらい晴れやかで―――


        「・・・・・・あれ?」


        目で追う、までもなかった。
        離れた場所からでも、いやにはっきりと薫の姿ばかりが、目に入る。



        ―――こんなに、きれいだっただろうか?



        高く跳ね上がった水しぶきに薫が悲鳴をあげた。
        舞い上がった無数の水滴に太陽が反射して、彼女を飾る宝玉のようにきらめいて飛び散る。
        僅かに濡れた黒髪は艶やかで、対比するかのように見え隠れする項の白さが強調されて―――


        ・・・・・・ああ、そうだ。
        十代の少女なのだ。


        心も身体も、ある意味最も成長著しいときだ。
        日々彼女が出会う出来事や、彼女に起こる感情の動き。
        そういったものすべてを吸収し、影響を受けて、「女の子」は驚くべき速さで変化してゆく。蛹が蝶になるように。

        男勝りの気の強さに、女らしい柔らかさが加わって。生命力に満ちた瞳に、憂いと優しさが与えられて。
        時間の流れを味方につけて、彼女はきれいになってゆく。



        気がつくと、剣心は薫から目が離せなくなっていた。
        子供たちの賑やかな歓声が遠のいて、視界から薫しかいなくなる。



        「・・・・・・剣心? 大丈夫かー?」
        はた、と我に返ると、すぐそばに弥彦が立っていた。

        「あ、ああ、弥彦でござるか・・・・・・大丈夫とは?」
        「今、ぼーっとしてただろ。それに顔、赤いぞ? 熱でもあるんじゃねーか?」
        気遣うような表情で顔を覗きこんでくる。剣心はそこで初めて、自分の頬が熱くなっているのに気づいた。



        ―――まいったな・・・・・・



        まさか弥彦に、薫に見蕩れて赤くなっていました、などとは言えない。
        「いや、この暑さの所為でござろう、心配いらぬよ」
        殊更に明るい声を出すと、若干腑に落ちない表情ながらも弥彦は「そうなのか?」と頷いて門下生の輪の中へと戻っていった。
        ふぅ、と息をついて、改めて水遊びに興じる子供たちに目をやる。

        弥彦くらいかそれより幼い少年少女たちが殆どだが、中には薫より幾つか年下であろう少年も何人か見受けられる。注意して観察してみると、
        そんな彼らがちらちらとためらいがちの視線を薫へと走らせているのがわかった。その目に込められているのは、明らかに憧憬の念。



        ―――俺も今、同じ目で彼女のことを見ているのだろうか。



        困ったな。
        いい歳の大人が、まるで初恋の少女の姿を追うように、ひとまわり以上も年下の娘を見つめているなんて。


        ふっ、と。その薫が剣心のほうへ目をやった。
        遠くから視線が合う。
        そんなことは、薫とは普段からよくあることだというのに―――なんとなく剣心は狼狽えた。

        遠くで薫はちょっと首を傾げ、近くにいた弥彦の肩をつついた。
        剣心の目からは、彼女が弥彦に何か耳打ちしている様子が見える。弥彦はそれに頷いて、そして薫は、ぱしゃぱしゃと飛沫を足首に纏わせながらこち
        らに向かってきた。川からあがって脚を軽く拭いて草履をはいて―――剣心をじっと、見ている。

        「・・・・・・薫殿?」
        少し、距離をとった場所から、薫は小さく首をかたむけて何か語りかけるように剣心を見つめる。
        そして不意に、手招きをしてみせた。
        「え?」
        つられたように腰を浮かせる。
        と、薫は突然、だっと走り出した。


        「薫殿!?」


        反射的に立ち上がって、剣心は薫を追った。
        ぐんぐん走る彼女の髪が、音楽を奏でるように踊る。
        胴着の短い袖が風をはらんでふくらむ。そこから覗く肘はわずかに尖っていて、彼女の細さを教えてくれる。
        上流にむかって薫は走る。彼女も女性にしては足の速い方だが、それでも剣心がかなわないわけはない。その気になればすぐに追いついて華奢な腕
        を捕まえることは容易だったが、そうはしなかった。

        時折、後ろから剣心が追ってくるのを確認するようにちらちらと薫は背後に目を走らせるが、その瞳には愉しげな色が見え隠れする。
        そんな彼女を「追いかける」という行為がなんだか楽しく感じて―――鬼ごっこに興じる子供のような気分で、剣心は走った。

        走る速度にあわせて目まぐるしくあたりの風景がかわる。青い空を流れる雲と、上流に向かうにつれて濃くなってゆく木々の緑。
        足を踏み出す度揺れる薫の白い小さな背中。なびく黒い髪。彼女自身が風になって、景色の一部に溶け込んだような。



        それは一幅の絵のような光景。
        夏の、彼女のいちばんきれいな瞬間をそのまま切り取ったような、鮮やかな絵。



        やがて薫は川沿いに走っていたコースを斜めにずらした。
        路をはずれて川縁の砂利を踏んで、突然立ち止まったかと思うと素早く屈んで草履を脱ぐ。

        「かお・・・・・・」
        川辺で剣心は立ち止まる。薫は袴の裾が濡れるのも気にせずに、ばしゃばしゃと川の中に踏み込んでゆく。
        先程まで皆で騒いでいた場所よりずっと上流のここは、わずかに街中からはずれて周りに高い木も茂りちょっとした森の風情だ。ごつごつとした大きな
        岩につまずかないよう気をつけながら薫は、流れに白い脚を遊ばせる。
        「きゃー! ここ冷たいっ!」
        高い声で叫びつつもその顔は笑っている。
        呆気にとられるようにその様子を見ていた剣心にむかって、薫はするりと手をのばした。


        「ほら! 剣心も」
        「え・・・・・・?」
        「川遊び、したかったんじゃないの?」


        少し、照れるような。でも内側から光があふれるような笑顔で。
        言葉では伝えきれない感情を、言葉より確かに、色濃く湛えた瞳で。
        それは彼女が自分にだけ見せてくれる特別な表情であることを、剣心はもう知っていた。



        「ここなら他の子たちに気兼ねなく入れるでしょ?」



        ―――そうか。そのために、門下生や子供たちのいないここまで走って、連れてきたというわけか。



        胸の奥から、暖かい気持ちとともに朗らかな笑いがこみ上げてきた。
        破顔する剣心に、薫もつられたように笑う。

        「ありがとう、薫殿」
        裸足になって、川に足をつける。
        人の肌に触れていない流れは下流のそれよりひんやりと冷たい。
        「ね? 気持ちいいでしょう」
        剣心の浮かべた表情に、薫は満足げに胸を反らせてみせる。



        ―――違うよ。



        清冽な流れよりももっと、涼風となって癒してくれるのは君の声。
        照りつける日差しよりもさらに、頬を熱く火照らせるのは君の笑顔。

        薫に倣って、袴の裾を濡らしながらじゃぶじゃぶと流れに踏み込むと、先程の追いかけっこの続きのように薫がくるりと背を向けた。
        すべる足元に注意しながら上流へと逃げようとする薫に、しかし今度は手心を加えなかった。迷わずに、細い肩にむかって手をのばす。



        飛びつくように、背中からぎゅうと抱きしめる。
        きゃあ!と明るい悲鳴があがった。







        君を腕に空を仰ぐと、緑の梢越しにも太陽が眩しい。
        きっと今、二人で真夏の中心に立っている。








        (了)









        モドル。





                                                                                      2012.08.22