僕らの一歩

     





        ざく、ざく、ざく。




        昼間に降った雪はそのまま融けずに路面に残り、夕方になって更に下がった気温のせいでざらめのような質感に凍りついた。一歩踏み出す度に
        足元で小さな氷の粒が小気味よい音をたてる。
        冬の入り口のこの時期、すっかり日も短くなって、最近は家にたどり着くのが早いか夜の帳が降りるのが早いかが競争のようだ。暗くなるのに比
        例して強まる冷えこみに、剣心は歩く速度を上げる。今日はひとりだから、薫に合わせる必要はない。

        機敏な彼女は大抵の女性よりは足が速い。特に、出稽古の行き帰りなどに紺絣の袴を捌きながら歩く様子は実に颯爽としていて、見とれてしま
        うこともしばしばだ。とはいえ、普段着のときは流石に普通に女性らしく、小さな歩幅でことこと可愛らしく、下駄を鳴らして歩く。だから連れ立って
        歩くときは、いつも剣心は彼女の速さに合わせている。


        今はひとり、ざかざか大股に足を動かして早足で歩く。正直なところ、薫がいない時にこうして自分の歩幅で歩くのは楽だ。それは連れ合いがい
        る世の男性がたが誰でも感じていることであろう、特にこんな夕暮れはゆっくり歩いていたら芯まで冷えてしまいそうだから、遠慮なく急ぎ足で歩
        を進める。


        ひゅううと笛を吹くような音をたてて、木枯らしが通り過ぎた。
        身を切るような冷たさに、剣心は歩きながら首をすくめる。



        「・・・・・・寒いなぁ」



        無意識に口をついて出た言葉に、相槌をうつひとはいない。
        ひとりで歩いているのだから、それは当然のことなのだけれど。


        ほんの少し前までは、ずっとひとりで歩いていた。
        ひとりきりであてもなく国中を旅して、それでも辛いと思うことは滅多になかった。
        けれど今は、こんな小さな瞬間にも感じてしまう―――「寂しいな」と。
        なんと自分は不自由な人間になってしまったんだろう、と思って、頬がゆるんだ。
        それは、決して苦い笑いではなくて―――



        「・・・・・・あ」


        剣心は、道の先に見慣れた後姿を見つけた。
        高く結った髪に、藍色のリボンが揺れている。


        「か・・・・・・」
        呼ぼうとした名前を、剣心は途中で飲み込んだ。
        薫の、少し離れた後姿が立ち止まった。通りかかった店先で、同じ年頃の娘から声をかけられたようだ。友人だろうか、足を止めて言葉を交わす
        薫の横顔は楽しげだった。剣心は薫に合わせて足を止め、離れた位置から彼女を見ていた。

        じきに薫は軽く手を振って娘に別れを告げ、再び歩き出す。
        それにあわせて、剣心も歩く。

        足取りとともに、リボンに飾られた黒髪が弾む。
        あえて声はかけないで、なんとなく彼女の後について歩いた。


        しばらくすると、また知り合いの顔をみつけたらしく、くるりと横を向く。
        今度は違う店先の、どうやら顔見知りの店員のようだ。挨拶に「寒いですね」とでも返しているのだろうか、薄暮のなかくっきりと浮かび上がる輪
        郭。横顔はやはり笑顔。
        さくさくと凍った雪を踏みながら、薫の細い背中が揺れる。剣心は彼女と同じ速度で歩きながら、しゅっと姿勢のよい後姿を眺めていた。

        ときどき、真っ直ぐに歩く薫の頭がちいさく動く。
        剣心は彼女の視線がとらえているであろうものを自分も追ってみて、その都度頬をゆるめた。
        散歩中の猫、植木屋の軒先に飾られた南天の赤、家路を急ぐ幼い兄弟―――



        そして、ふと足が止まる。
        おや、と思った剣心は、視線を薫の背中から少し上げて、行く手の先を見た。



        そこに広がったのは見事な空。
        茜色の夕暮れが消えて藍色の夜に変わるその瞬間、線香花火の最後のまるい炎のような、紅い太陽がずっと先の家並みに―――沈んだ。



        急速に明度を落とす濃紺の空の幕に、ちらちらと粉雪を撒いたように小さな星がまたたきはじめた。



        「剣心?」



        はっとして、視線を戻した
        少し先にいた薫が、振り向いてこちらを見ている。
        「なんだ、剣心も今帰りなのね」
        冷たい風のせいでほんのりと赤く染まった頬で、薫がふわりと笑う。
        「・・・・・・今の、綺麗でござったな」
        「あ、夕暮れ?」
        隣に並んだ剣心に、薫はきらきらと明るい瞳を向ける。
        「ね、なんか音がしそうだったわね」
        「音?」
        「日が落ちる瞬間にね、線香花火が落ちるみたいに、『じゅっ』って」
        ああ、と剣心は微笑んだ。
        「拙者も、似ているなと思っていた」
        「ねっ」



        そう、同じものを見て、同じ景色に触れて、同じ感情を共有すること。
        それはひとりで歩いていた頃には、決してできなかったこと。



        「ひゃ!」
        「あ、すまない、冷たかったでござるか?」
        するりと手をとられた薫は、彼の指のひんやりとした感触に小さく肩をすくめたが、剣心は手を離そうとしなかった。
        「剣心、すっかり冷えきっちゃってる」
        「こうしていると暖かいでござるよ・・・・・・実は、ちょっと前から薫殿の後を歩いていたのだが」
        「え、うそ、いつから?」
        「友人と立ち話をしているあたりから」
        「やだもう、すぐに声かけてくれればいいのに!」
        薫は照れくさそうな表情で首を振ってから、繋いだ手をついと引いて剣心の手の甲をそっと撫でた。

        「あー、こんなに冷たくなっちゃって・・・・・・わたしの歩幅で歩いてたなら、寒かったでしょ」
        剣心は、思わぬ返答に軽く目をみはる。
        「剣心、いつもわたしにあわせて歩いてくれているもんね。寒いのにごめんね」
        「いや、拙者は別に、そんな・・・・・・」
        「ありがとう」


        そう言って、薫が笑った。
        冬空の下そこだけ春の陽がさしたような、あたたかくて晴れやかな、笑顔。



        独りで歩いていた頃、広い夜空の下、どこまでも歩いた。
        どの道へでも進むことができたし、どこまでも自由だった。


        けれど今はもう、その自由に戻りたいとは思わない。
        独りで踏み出す一歩よりも、君と合わせた歩幅で歩く一歩のほうが、よっぽど大きな一歩だと思えるから。



        「・・・・・・寒いなぁ」
        吹き抜けた一陣の風に、剣心が呟く。
        「ほんと、寒いわねぇ」
        ごく自然に返される相槌。その暖かさを改めてかみしめながら、剣心は薫に寄り添った。






        こうして、ずっと一緒に歩いていこう。
        時に走ったり立ち止まったりしながら、君の涙も笑顔もすべて二人でわけあって。




        頭上で瞬く星たちに聞かせるかのように、剣心は心の中で誓った。
        ずっとずっと、君の傍にいることを。













        (了)

                                                                                        2012.1.21








         モドル。