ありがとう











        赤々とおこる炭火がくべられた焜炉の上で、いい具合に煮立った鍋がくつくつと音を立てている。
        鍋の中で身を寄せあうのは主役の牛肉のほかに、葱や豆腐といった牛鍋に欠かせない具材たち。醤油や酒、味醂や砂糖などが店秘伝の割合で配合さ
        れた煮汁からは、食欲をそそる匂いが漂っている。

        「食べ頃やね、さあどうぞ」
        妙にうながされ、薫は箸を取る。
        ほどよく煮えて色づいた肉をひとひら、器に受けてから、口に運ぶ。

        舌に伝わる、心地よい熱さの刺激。
        やわらかな食感と、肉の旨味が口の中に広がって―――


        「おいっっっしい・・・・・・」


        感に堪えない、という声が漏れる。
        恍惚の表情で牛鍋を味わう薫に、妙は満足そうにうんうんと大きく頷いた。
        「ええねぇ・・・・・・そう言うてもらえるの、食べ物屋冥利につきるわぁ」
        「だってほんとに美味しいんだもん!妙さん、これいつも赤べこで出してるのと同じお肉?!」
        「ちーっとばかし、うちで出してる中でもええほうのお肉やよ。遅くなったけど、うちからの出産祝いいうことで」
        「あーん妙さんありがとう!牛鍋なんてしばらく食べにいけないと思っていたから、とっても嬉しい!」
        「うちらかて、薫ちゃんのそないな顔しばらく見られへんと思てたから嬉しいわ。薫ちゃんてほんま美味しそうに食べるから・・・・・・ねぇ燕ちゃん?」
        妙に呼ばれた燕は、一瞬の間を置いて「あ、そうですね」と返事する。すぐに反応できなかったのは、腕に抱いている剣路をあやすのに夢中だったから
        だ。

        「燕ちゃんもありがとうね。重いでしょ?抱っこするの疲れたら、布団に寝かせていいからね?」
        「いえ、ぜんっぜん平気です!」
        少女ながらも母性本能なるものを刺激されたのか、燕は目をきらきらさせながらそう答える。
        「っていうか・・・・・・剣路くんずいぶん大きくなりましたね。先々月なんて、あんなにちっちゃかったのに」
        「生まれたばかりの赤ちゃんって、びっくりするくらい成長早いものね。正直、毎日見ているわたしたちだって驚くくらいだもの」
        「ああ、すくすく大きくなってくれて何よりでござるよ。今に、拙者の背も抜かしてしまうのでござろうなぁ」
        「剣心はん・・・・・・それは流石に、あと十年以上はかかるんちゃいます?」
        あまりに気の早い発言に、皆があげた笑い声が縁側を通り越し庭先まで響く。
        そう、一同が牛鍋を囲んでいるのは赤べこではなく、神谷道場の居間である。


        「ほんに、剣心はんええこと思いついたもんやねぇ・・・・・・外食できない薫ちゃんに、『出張牛鍋』なやんて」



        発案者は、剣心だった。

        明治十三年八月、薫は無事に男児を―――剣路を出産した。
        五体満足、産後は母子共に健やかだったのは幸いだったが、当然そこからも大変な日々が待っていた。何せ、ふたりにとって初めての子育てだ。特に
        薫は始終お乳をやらねばならないし、夜もゆっくり眠れない。外出らしい外出はほとんどできないし、外食などといったら尚更むずかしい。

        それならば、店の方から来てもらうことはできないだろうかと。そう思いついた剣心は妙に相談した。
        妙にとっても薫は、お得意さま以前に大事な友人である。剣心の案に一も二もなく賛成し、今日の「出張牛鍋」が実現したのであった。


        「これ、他の常連はん家でも出来へんかしら?あんまり遠い所やと無理やろうけど・・・・・・」
        「そりゃ需要ありそうだけど、いちいち焜炉と鍋運ぶのは難しいんじゃねーのか?」
        それまでひたすら鍋をつつくのに集中していた弥彦が、顔を上げる。店と同じ味を自宅で楽しみたいのなら、妙が神谷道場の竈を借りて調理すればよい
        だけなのだが、せっかくなら店に居るような雰囲気も味わわせてやりたい。そう思った剣心は「拙者が運ぶでござるから、焜炉も貸して貰えぬだろうか」
        と提案したのだった。

        「剣心、どうもありがとう。これ持ってくるの大変だったでしょう?」
        恋女房から率直に礼を言われた剣心は、「いやぁ、それほどでもなかったでござるよ」と目尻を下げる。
        「おい剣心、あんまり薫のこと甘やかすと、こいつのことだから調子に乗ってつけあがるぞ?今に『葵屋の料理が食べたいから、ひとっ走り京都に行っ
        てこい』とか言い出したらどーすんだ?」
        やにさがる剣心をからかうつもりで、弥彦が茶々を入れた。が、剣心は一転してきりりと眉をつり上げ、表情を険しくする。
        「弥彦、お産は女の大厄だと言うように、赤子を産むことは大仕事なのでござるよ?今も薫殿は毎日剣路にお乳をやっているのだから、滋養のつくものを
        しっかり食べて体力をつけて、いつも以上に身体をいたわらなければならないわけで―――」
        「わかった!わかった剣心、俺が悪かった!」
        冗談のつもりの台詞に大真面目な説教が返ってきたものだから、これは謝るが勝ちだと判断した弥彦が速攻で頭を下げる。そんなやりとりに、女性陣たち
        は明るい笑い声をあげた。


        「燕ちゃんも、そろそろこっちに来て食べたら?剣路も眠ったみたいだし」
        「ありがとうございます、じゃあ・・・・・・」
        薫に誘われた燕は、注意深く剣路を布団の上に寝かそうとする。
        腕から下ろしたとたん、目を覚まして泣き出してしまわないように、静かに、そっと―――

        「・・・・・・大丈夫、成功です」
        燕はほっとした顔で、自由になった両手をひらひらと動かしてみせた。その仕草に、剣心と薫は顔を見合わせて微笑みを交わす。

        「あらまぁ、そっくりやねぇ」
        妙の呟きに、薫はすかさず反応する。
        「そうなの!剣路、日に日に剣心に似てくるのよね。目の色が明るいのも剣心譲りだし、もちろん顔立ちも・・・・・・」
        喜々として「どのあたりが特に似ているか」を語り出した薫に、しかし妙は笑って「ちゃうちゃう、そうやなくて」と首を振る。


        「長く連れ添った夫婦は似てくる言うけれど、薫ちゃんと剣心はん、もうそないな感じなんやねぇ。今の一緒に笑うた表情、そっくりやったわ」


        その言葉に、剣心と薫はもう一度顔を見合わせる。
        そして薫は「やだ、妙さんそれ本当?」と頬を染めて無邪気な喜びの声をあげ、一方の剣心はおもむろに立ち上がった。
        「ご飯があったほうがいいでござるな、持ってくるでござるよ」
        若干、唐突に話題を変えたような感ではあったが、確かに牛鍋に白いご飯は最高の組み合わせである。皆が反射的に「じゃあお願い!」と答える声を背
        に、剣心はそそくさと居間を出て襖を閉めた。
        そうして、皆の目が届いていないことを確認してから、手のひらで顔を覆う。


        ・・・・・・危なかった。


        すくすく育ちゆく我が子に、それを自分のことのように喜んでくれる友人たちに囲まれて、みんなで笑顔で美味しいごはんを食べて。それは自分にとって、
        ほんの数年前には想像することもできなかった幸せな状況だ。
        それこそ、泣きたくなるくらい幸せな状況なものだから、うっかり涙腺が緩んでしまわないよう気を張っていたというのに―――今の妙の台詞は完全なる
        不意打ちだった。


        夫婦が似てくるというのは、長年連れ添って同じものを見て感じて、苦楽を共にしてきたからこそだろう。
        出逢ってからまだ三年も経っていない自分たちが既に似てきたというのならば、それはきっと出逢いから結ばれるまでの間にあまりに「事件」が多かった
        からだ。

        薫には、短い期間のうちに悲しい思いも辛い思いもさせてしまったし、命が危ないような目にも遭わせてしまった。
        それにもかかわらず彼女は俺を好きでいてくれて、一緒になってくれて、今も隣で笑っていてくれて―――


        そんなわけで、妙の「そっくりやねぇ」にそんな思いが一気に頭の中を駆け巡り、涙がこみあげそうになってしまった剣心は、慌てて口実を作り居間から逃
        げ出した訳だった。剣路を授かってからというもの、すっかり涙もろくなってしまったのは悩みの種であるが、それが贅沢な悩みであることは自覚している。

        台所にて目蓋の中が落ち着くのを待ってから、剣心は温かいご飯が入った飯櫃をかかえて、皆のもとへと戻った。








        ★








        「まだ炭も熱いし、焜炉は置いていきますね。またそのうちやりまひょ、出張牛鍋」
        「妙さん、ありがとう!剣路がもう少し大きくなったら、今度は家族で赤べこに食べに行きますから!」
        「それは楽しみやねぇ・・・・・・ね、燕ちゃん」
        「はい!楽しみに待ってます!」
        「その時はちゃんと金払えよな、剣路も入れて三人分」
        「いつもまかないご馳走になってるあんたが、偉そうに言うんじゃないの!」

        薫が拳を振り上げて、弥彦がひょいとそこから逃げる。この師弟ならではの毎度のやりとりに笑い声が上がったのをしおに、妙たち三人は「それじゃあ、
        また」と道場を後にした。


        「美味しかったわねー、久々の牛鍋」
        まだすやすや眠っている剣路の寝顔を眺めつつ、薫が呟く。
        「やはりあの味は、家では再現できないでござるからなぁ。妙殿に感謝でござるよ」
        薫は、隣に腰を下ろした良人のほうに膝を向け、「妙さんもだけど、剣心もよ。今日はどうもありがとう」と、改めて礼を言う。
        「いや、拙者はただ、思いつきを妙殿に言ってみただけで・・・・・・」
        「思いついてくれたのが嬉しいの!わたし、牛鍋なんてまだしばらく食べられないものと諦めていたんだから。本当にありがとう、剣心」

        またしても、鼻の奥が熱くなってきてしまい、剣心は涙がにじみそうになるのを堪えるために天井を仰ぐ。「どうしたの?」と不思議そうに尋ねられて、剣心
        は、覚悟を決めたかのように眦を決し、妻の顔を見た。


        「いや・・・・・・そう言ってもらえると、こちらこそ嬉しいでござるよ。拙者はいつも薫殿に何かしてもらってばかりだから、拙者から何か出来ることはないだろう
        かと・・・・・・そう思っていたから」


        剣心が口にした言葉は予想外のもので、薫は一瞬ぽかんとする。そして「やだ、完全に逆でしょう?」と首を横に振った。
        「何かしてもらっているのはわたしのほうよ。剣路がお腹にいるときから、家事も稽古の代理もしてもらったし、今だって毎日おむつを替えたり洗濯してくれ
        たり・・・・・・」
        「いや、それは拙者は父親なのだから当然のことでござるよ」
        きっぱり躊躇無く言い切る剣心に、薫はつくづく「このひとと夫婦になれてよかった」と思った。この一年、弥彦からは何かにつけて「お前みたいながさつ
        な女の夫がつとまるのは剣心だけだよな」と憎まれ口を叩かれてきたが、それはまごうことなき事実だろう。自分のような粗忽者に、剣心のようなまめな
        良人がいてくれる幸運に、薫は改めてしみじみ感謝の思いを噛み締めたが―――剣心は剣心で、どの言葉を使えば自分の気持ちを適切に伝えられる
        だろうかと、四苦八苦していた。

        「薫殿は、たくさんのことを拙者にしてくれたでござるよ。剣路を産んでくれて・・・・・・拙者を父親にしてくれて、拙者と、家族になってくれて・・・・・・」
        「それなら、わたしを母親にしてくれたのも剣心だし、剣心だってわたしと家族になってくれたわけだし」
        「いや・・・・・・だけど。その、つまり、何というか・・・・・・」
        いつもは口巧者な剣心が珍しく、言葉の選択に迷って途方に暮れる。



        ずっと昔、大志を抱いて剣をとった。
        しかし、「皆が笑顔で幸せに暮らせる未来を作りたい」というその大志はとても未熟で幼くて、結果として沢山の後悔を背負うこととなった。

        でも、あれから十数年経った現在。
        俺はあの当時思い描いたどんな未来よりも、はるかに幸せな今を生きている。
        それはすべて、君と巡り逢えたことがきっかけで、だから―――

        いったいどう言えばこの心の裡をより正確に伝えられるのだろうか、と。
        上手い表現を見つけられないもどかしさに、剣心はがりがりと緋い髪をかきむしる。

        そんな良人の様子を眺める薫は、なんとなく彼の心中を察し、ふわりと目許をゆるめた。


        「・・・・・・そばに、いてくれること」


        「え?」と。
        髪を掻き乱す手を止めた剣心は、妻の方へと顔を向ける。すると、柔らかな微笑みを浮かべる薫と目が合った。



        「一緒に、ずっといてくれること。それが、わたしにとっての一番よ」



        剣路にむかって子守唄をうたう時のような、ささやくような優しい声。
        決して大きくないその声は、しかし剣心の心の深いところまで染みいるように響いた。


        ―――ああ、そうだ。
        薫は最初からそう言ってくれていた。

        出逢ったばかりの頃、今までと同じように流れるつもりだった俺を引き止めてくれたときも。
        その年の夏の終わり、闘いの前日の夕映えの帰り道、勇気をふりしぼって告白してくれたときも。


        ずっと、一緒にいること。
        それはいちばん単純で無垢で、純粋な願いで。
        でも、それこそが―――いちばん貴重なことなんだ。



        「・・・・・・ありがとうでござる」



        言葉は、笑顔とともに自然にこぼれた。
        そう、こうして感謝の言葉を直接目を見て伝えられるのも、一緒にいるからこそ出来ること。

        そもそも、こうして出逢えて一緒に過ごして居られること自体が奇蹟みたいな事なのだから、大切にしなくてはならないんだ。
        此処で、君と剣路と一緒に生きている今を―――そして未来を、ずっとずっと俺は、守ってゆこう。


        「それは、何に対するお礼?」
        悪戯っぽくまぜっかえす薫を抱き寄せて、剣心は「すべてに、でござるよ」と額に唇を押しあてながら言う。



        ―――ありがとう。



        出逢ってくれたこと。
        俺を愛してくれたこと。
        家族になってくれたこと。
        そして、この世界に君というひとが生まれてきてくれたことに。



        その言葉をずっと抱きしめて、俺は君と生きてゆこう。





        「・・・・・・ところで剣心、さっきちょっと、泣いてた?」


        妻の鋭い目はごまかせなかったようだ。
        笑いを含んだ声音で指摘された剣心は、とりあえず薫の唇を自分のそれで塞いで、強制的に話を打ち切らせた。













        了。







        モドル。







                                                                                         2020.02.08