アンコール






        

        四月、あなたがここにいることがとても自然になった、春。







        「・・・・・・ひゃっ!」


        突然、後ろから肩を軽く叩かれて、薫は小さく声をあげた。
        振り向くとそこには、のほほんと微笑む剣心がいた。


        「〜もう! びっくりするじゃないのっ!」
        悪戯心から足音をたてずに近づいてきた剣心の肩を、薫は怒った声で小突いた。相変わらずの表情の剣心が「あはは、すまない」と謝る。


        「この時間なら薫殿たちが通りかかるかと思ったのだが・・・・・・弥彦はどうしたのでござるか?」
        薫は出稽古の帰りである。しかし、一緒に家を出た筈の弥彦の姿は隣になかった。
        「うん、他の男の子たちと遊んでから帰るって。川の方にでも行ってるんじゃないかしら」
        「おろ、元気なものでござるなぁ」
        出稽古先には同じ年頃の少年たちもいる。時々ではあるが、弥彦は稽古の後に彼らと一緒に行動するようになってきている。普段年上の者たち
        に囲まれて過ごすことの多い弥彦に、同年代の友人が出来るのはよいことだと剣心も薫も思っていた。

        「買い物、終わったの?」
        「もう一軒でござるよ、ほら」
        剣心の指差す方を見ると、道端に茣蓙を敷いて店を広げる、四十がらみの女性の姿が目に入った。週に何度か、自分の畑で収穫した野菜を売り
        に来ている農家の女性で、剣心も薫も顔見知りだった。むこうもふたりに気づいたらしく、ふるふると手を振ってくるのが見えた。

        「いいわねぇ、今日はおふたりで楽しそうなこと!」
        健康的に日に焼けた顔で明るくそう言われ、薫は「いやそんなえーと」とおろおろと赤くなる。


        「そういえば、このごろフクネコを見ないねぇ」
        ふたりが所望した筍を籠に乗せながら、農婦が思い出したように言った。
        「ほんとですね・・・・・・またどこかに行っちゃったんですかね」
        薫と農婦との会話を聞きながら剣心は、小さく首を傾げた。




        「薫殿、フクネコとは?」
        買い物を終えて道場に戻る道すがら、剣心は薫に訊いた。
        「あれ? 剣心は見たことなかったかしら。ほら、よくこのあたりを歩いている真っ黒な猫」
        「ああ・・・・・・あの大きいやつでござるか」

        すぐに思い当たって頷く。
        商店の立ち並ぶ道の真ん中を悠々と歩いていた黒猫。そういえば通りすがりに薫が手を伸ばすと、ごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうに撫で
        られていたこともあった。人に慣れていて毛並みもつややかで、剣心はてっきりどこかで飼われている猫かと思っていた。

        「綺麗な毛並みしているけど、野良猫なのよ。このへんの人達は勝手に福猫って呼んでいるんだけどね」
        足の裏まで真っ黒な烏猫は、商売繁盛をもたらす福猫だと言われている。そのような猫は特に商家に好んで飼われるものであるが―――
        「人懐っこい猫なんだけど、時々ふらっと何処かに行っちゃうの。野良なんだから仕方ないんだけど・・・・・・」
        福猫は縁起がいいからといって、飼い猫にしようとした家もあったそうなのだが、数日は居着いてもすぐに家出をしてしまった―――という話を、
        薫はあの農婦から聞いたこともあった。



        「きっと、それが性分なのでござろうな」



        隣を歩く剣心が何気なく口にした一言。
        それは棘のように、薫の心にひっかかった。



        「ひとつの所では暮らしてゆけない質なのでござろう。大丈夫、きっと元気でいるでござるよ」



        すっと、胸の奥が冷たくなる心地。
        それはまるで、剣心が自身のことを言っているように聞こえて―――



        「・・・・・・薫殿?」
        はっとして、顔をあげた。
        「どうか、したのでござるか?」


        薫は、いつのまにか足を止めていた。
        のばした手は、剣心の着物の袖の端を、しっかりと掴んでいる。
        「あ・・・・・・ごめんね、なんでもないの」
        しかし、薫は掴んだ指を離さなかった。
        剣心は、何も言わなかった。



        ―――いつかは、彼もここを去るのだろうか。



        突如湧き起こった不安が胸を圧迫するようで、苦しい。
        身体を縛りつけるようなその不安から逃れたくて、薫は深く息をついた。
        ゆっくりと、三回、呼吸を繰り返す。
        固く握っていた指を、そっと離した。


        「・・・・・・行こうか」


        たった今の沈黙などなかったような、いつもどおりの剣心の声。そして、優しい微笑み。
        けれど、今の薫にはそれが悲しかった。
        拭いきれない不安を抱えたまま、薫は無理に笑顔を作って頷いた。








        五月、去ってゆくあなたの後姿が夜の闇に溶けて消えた。
        猫は、帰ってこない。








        ★








        十二月、年の瀬も押しつまり、街にどことなく慌しい空気が漂い始める。
        明治十一年も、残すところあと僅か。






        「・・・・・・ひゃっ!」


        突然、後ろから肩を軽く叩かれて、薫は小さく声をあげた。
        振り向くとそこには、のほほんと微笑む剣心がいた。


        「〜もう! びっくりするじゃないのっ!」
        足音をたてずに近寄ってきた剣心の肩を軽く小突くと、拳に柔らかい感触が返ってきた。剣心がまとっているのは、薫が仕立て直した父親の綿入
        りの羽織だった。
        「あはは、すまない。弥彦は?」
        「出稽古先の子達と遊びに行っちゃったわ。もう陽が短いんだから長屋には早く帰るように言っておいたけれど・・・・・・きっとお構いなしでしょうね」
        「この寒いのに、元気でござるなぁ」
        「子供は風の子だもの」
        先日神谷道場を出た弥彦は、現在、左之助の居た長屋に住んでいる。
        長屋に移ると宣言した弥彦を、ちゃんとひとりでやっていけるのかと薫は随分心配したものだが、周りの人々の手助けもあり、本人はむしろ悠々
        と一人暮らしを楽しんでいるようだった。

        「買い物、終わったの?」
        「もう一軒でござるよ、ほら」
        指差す先では、馴染みの農婦が今日も寒い中店を広げていた。





        「もう今年は今日が最後になるかねぇ。今年も一年ありがとうございました!」
        農婦が少し早めの暮れの挨拶をし、剣心と薫は「こちらこそ」と揃って頭を下げた。
        「で、今日はお得意さんにこれ配ってたの。よかったらどうぞ」
        そう言って、小さな包みを差し出す。受け取って開いてみると、中には大きな干し柿が入っていた。
        「わぁ美味しそう! いいんですか? いただいちゃって」
        甘いものに目がない薫が、ぱっと顔を輝かせる。
        「いいのいいの、あんたたち夫婦にはご贔屓にしてもらってるんだから!」


        ・・・・・・それは自然に、「夫婦」と呼ばれた。
        薫の頬が、ぼっと赤くなる。

        そんな風に見られていただなんて・・・・・・正直に言えば、嬉しい。
        でも、嬉しいけれど恥ずかしさのほうが先に立って、薫は慌てたように訂正する。



        「や、やだっ! わたしたち、まだ夫婦とかじゃないんですよっ!」
        「うん、祝言は年が明けてからのつもりでござるから」



        そんなに大きな声ではなかった。
        しかし薫は、耳元で銅鑼でも鳴らされたくらい驚いた。
        言葉を失ったまま、剣心の顔をまじまじと見る。


        「あらあら、それは年が明けるのが楽しみだこと! ちょっと早いけれど、おめでとう!」
        薄暮のなか、農婦は白い歯をみせて明るく笑った。








        「・・・・・・あんな事考えてたの?」
        「え?」
        「祝言・・・・・・年が明けたら、って」
        「あ、それは・・・・・・うん、まぁ、わりと前から」
        冬の日暮れはあっと言う間で、帰路につく背中を後ろから追いかけるように、空は夕闇に覆われてゆく。
        買い物を済ませたふたりは並んで歩きながら、しかし気恥ずかしくて、互いの顔をなかなか見ることができないでいた。
        「そんな大事なこと、考えていたなら、まず本人に言いなさいよね」
        「すまない・・・・・・怒ったでござるか?」
        「・・・・・・」
        「薫殿?」
        「怒るわけ、ないじゃない・・・・・・びっくりして、嬉しくて、気絶しちゃうかと思ったわ」


        薫は顔を上げ、まっすぐに剣心の目を見て―――潤んだ瞳で、笑った。


        「とっても嬉しい。ありがとう、剣心」
        「あ、いや・・・・・・こちらこそ、でござる」


        今になって照れくさくなってきたのか、薫の視線をまっすぐ受けた剣心の頬にはうっすらと血がのぼっていた。さっきはあんなにさらりと言ってのけ
        たくせに、と、薫はなんだか可笑しくなる。
        「それにしても、あんなところであんなふうに言うなんて、心臓に悪いったらありゃしないわ」
        「あー・・・・・・すまない、ずっといつか切り出そうと悩んでいたものだから、これはいい機会だと思って、つい・・・・・・」
        「ずっとって、いつから?」
        「いや、ずっとは・・・・・・ずっとでござるよ」
        「気になるなぁ、それ」
        「えーと、だから、それは・・・・・・あ、薫殿、あそこ!」


        からかい混じりの追求を逃れるように、剣心は道の先を指差した。
        そこには、夜の暗さに紛れるようにしながら佇む―――黒猫が一匹。


        「・・・・・・福猫!」


        薫は駆け寄って、道端にしゃがみこむ。
        夜目にもつややかな毛並みに大きな身体の、それは間違いなく、春に姿を消したきりだった福猫。
        「ちゃんと、帰ってきたんでござるなぁ」
        剣心が近づいて屈みこむと、薫は振り向いて柔らかく笑った。
        「それだけじゃないみたい。ほら」
        「おろ?」
        そばに来て、剣心も目を丸くし―――そして、口元を緩める。
        福猫の陰になって見えなかったが、その傍らにはもう一匹。福猫よりひとまわり小さな、白い猫がいた。
        「お嫁さんを、連れてきたのね」
        おかえりなさい、と薫が頭を撫でてやると、福猫は以前と変わらぬ人懐っこさで、みゃあ、と鳴いた。


        「・・・・・・もう、どこへも行かないでござるよ」


        薫が顔をあげると、剣心の肩越しに月が見えた。
        「猫が? それとも・・・・・・剣心が?」
        「猫も、拙者も」
        差し出された手をとって、立ち上がる。剣心のてのひらは、暖かかった。



        「薫殿」
        「なぁに?」
        「拙者の、妻になってくれ」



        薫の目が、大きく瞠られる。
        剣心は、緊張した面持ちで続けた。

        「一緒にずっといたいと言ってくれたとき、嬉しかった。拙者も・・・・・・同じ気持ちでござる。だから薫殿、この先の人生をずっと、拙者とともに生きて
        はくれぬか・・・・・・?」

        訥々と紡がれる言葉が、静かに心に流れこんでくる。
        薫の、驚きに固まった表情からふっと力が抜け、唇にゆっくりと微笑みが浮かぶ。
        「ねぇ、順番が逆よ? さっき祝言は来年って宣言してるのに」
        「それでも、これはちゃんと言っておかねば」
        真面目くさった剣心の台詞が、嬉しかった。
        胸を満たしてゆくあたたかい感情が、そのまま幸せな涙となって、瞳にあふれる。



        「・・・・・・なります」



        ぽたり、と。
        一粒こぼれた涙が、ふたりの手に落ちる。
        「あなたと、一緒に生きてゆきます」
        承諾の返事に、剣心が安心したように表情をゆるめた。
        断るわけないのに、と、薫は可笑しくってまた笑った。





        琥珀色に輝く月が、手を繋いだまま帰路につくふたりと、寄り添うように歩く二匹の猫に、優しい光を投げかける。
        ずっと一緒に歩んでゆくふたりの未来を、あたたかく照らしているかのように。





        (了)










        モドル。