365日










        「覚えてる?わたしたちが、はじめて逢った日」



        そう訊かれて、剣心は真新しい日めくりをめくった。
        「この日でござろう?」と示したのは、表紙の上から数えたほうが早いくらいの、季節でいえば冬の終わりの日付。
        薫は「そう、この日だったわよね」と目を細める。

        「剣心に、はじめてぎゅっとされたのが、この日よね」
        ぱらぱらとめくって、半分の少し手前で止める。其処の日付は、五月十四日。

        「・・・・・・いや、拙者が薫殿に酷いことをした日、でござろう」
        「でも、こうして帰ってきてくれたんだもの。だからもう、『はじめてぎゅっと』の日でいいのよ」


        そう言って、澄ました顔で笑ってくれるのがありがたかった。
        彼女の優しさに感謝を捧げるつもりで、腕をのばしてぎゅうっと抱きしめる。
        あの日のはじめての抱擁とはまったく違う感情のこもる触れ方に、薫の笑い声が明るく弾けた。








        ふたりが前にしているのは、来年の暦である。
        「明治十二年」と表紙に大きく書かれた日めくりは、他の年末年始に入用なものとともに先程買い求めたばかりだ。ふたつ購入して、ひとつは弥彦の長屋
        に届けてきたところである。
        道場に帰宅したふたりはなんとなく、買ったばかりの日めくりをぱらぱらとめくり、今年起こったことを日付に沿って思い返していた。


        「京都からみんなで帰ってきたのが、この日だったかしら?」
        「案外覚えているものでござるなぁ、花火を見に行ったのはいつでござったかな」
        「帰ってきてすぐだったわよね・・・・・・この日じゃなかったかしら」
        「このあたりは、毎晩のように宴席続きだったでござるな」
        「ほんとねぇ、赤べこにもさんざんお世話になったわよね。お店で飲み足りなくて、うちでまた飲み直したりもしていたし」
        「嵐の前の静けさだったのかな。その後、色々あったでござるから」
        「毎日賑やかだったから、静けさっていうのもおかしいけれどね」

        そう言って、肩をすくめて笑い合う。
        「色々」から数ヶ月を経て、既にあの頃のことは穏やかに笑って振り返られる出来事になっていた。


        明治十一年が始まり、程なくしてふたりが出逢って。
        弥彦に左之助に恵、蒼紫に操に葵屋の面々と、次々と新しい出会いがあった。斎藤や比古、更には縁と、剣心にとっては様々な形での再会があった。

        闘いがあった。悩み苦しんだこともあった。これが大切なひととの離別になるのかと絶望にくれたこともあった。
        けれど今、剣心と薫はこうして肩を寄せ合って、来る年の暦を手に笑顔で語り合っている。
        そして新しい年が来たら、ふたりは夫婦になる。新しい門出は、すぐそこに待っている。


        「ふたりで京都に行ったのが・・・・・・この日よね」
        「うん、そして、この日が―――」
        ぱらり、と数枚をめくって、剣心は薫の顔をのぞきこんだ。
        「はじめて、ちゃんと『好き』だと言えた日だ」
        まっすぐ目を見つめながら、そう言われて。薫の頬にふわりと朱の色が差す。
        はにかむ微笑みに引き寄せられるようにして、剣心は薫の唇に自分のそれを重ねた。はじめて口づけを交わしたのも、この日の夜のことだった。


        「・・・・・・ねぇ、剣心」
        「うん」
        「わたしを好きになったのって、いつ頃だったの?」


        唇の上で、囁くようにそう言われて。
        顔を離すと、薫の悪戯めいた瞳がそこにあった。

        「好きになった日・・・・・・でござるか?」
        「うん、だいたいでいいの。いつ頃だったのか、気になるなぁって」
        小さく首を傾げて笑う彼女の目許に、もう一度唇を寄せながら剣心は、「そうでござるなぁ・・・・・・」と呟くように言う。
        「いや、ちゃんとわかるでござるよ―――この日だ」


        そう言って、剣心は日付を遡る。
        彼が示した日は、それは。

        「・・・・・・うそ」
        思わず、薫の唇から声がこぼれた。



        それは、先程もふたりで語ったあの日。
        はじめて出逢った、冬の終わりの日を指していた。



        「嘘ではござらんよ。確かに・・・・・・ちゃんと自覚をしたのはもう少し後になってでござるが」
        よく笑いよく怒る、明るくて朗らかで涙もろくてとても優しいこの少女のことを、好きだと自覚するようになったのは、もう少し季節が進んでからだった。
        けれど―――自分の気持ちに気づく前からも、想いははじまっていた筈だから。
        「きっと、この夜からはじまっていたんでござるよ。薫殿に出逢った瞬間から、もう」

        お人好しで危なっかしくて、涙が滲んだ大きな目が綺麗で。その瞳が俺に向けれらたときから、きっと始まっていたんだ。
        あの日あの時既に、君に心はとらわれていた。

        それから先はもう、君に惹かれるばかりで。好きになってはいけないと思いながら、想いはふくらんでゆくばかりで。
        どうしようもなく君が好きで君に焦がれて、そうやって日々を重ねて、今がある。


        「薫殿は?いつ、拙者を好きになったのでござるか?」
        「・・・・・・おんなじよ。わたしも、この日」
        そう言って、薫は日めくりにそっと触れる。

        「さっき、嘘って言ったのはね、わたしと同じだったことに、びっくりしたからなの。わたしも勿論・・・・・・すぐに気づきはしなかったけれど、でも」
        わたしもこの日から、はじまっていたわ、と。そう言って薫は、大きく書かれた数字を、いとおしげに指先で撫でる。


        「ずっと、同じ気持ちで過ごしてきたんでござるな」
        「そう思うと・・・・・・ちょっと勿体無いかしら」
        「え?」
        「だって、『好き』がはじまってから、それをちゃんと伝えるまで、こーんなに間があいているわけでしょ?ほら」
        こんなに、と言いながら薫は日めくりをぱらぱらと指で繰る。はじめて出逢った日から「好き」と伝えあった日までの日数を示して、「ね?」と剣心の目を覗
        きこんだ。真剣な面持ちで「勿体無い」と訴える彼女が可笑しくて可愛くて、剣心はがばっと薫に抱きついた。細い身体はその勢いを受け止めきれず、畳
        の上に倒れこむ。

        「確かに・・・・・・言われてみれば勿体無かったでござるな」
        「でしょう?」
        覆い被さってきた剣心からの口づけを、頬に目蓋に受けながら、薫はくすぐったそうに答える。
        「まぁ、勿体無かったが、無駄な日々ではなかったでござるよ」
        「ええ・・・・・・そうだったわね」



        あの日、君に出逢って君に恋をした。
        やがて、君への想いを自覚して、そんな自分に驚いた。

        自由に旅をして流れ歩く身を、はじめて不自由だと感じた。
        好きなひとの傍にずっといて、ずっと一緒に暮らしていきたいと、流浪人になってはじめて思った。


        誰かを愛することなど許されないと思っていた。
        けれど、そんな心の枷を壊してしまうくらい、愛しさはどんどん嵩を増していった。

        気持ちを伝えられぬまま過ごしてきた日々も、想いは確実に育っていった。
        そして―――時を経て闘いを経て、この先の人生の指標となる贖罪の答えに辿り着いたからこそ、あのときひとかけらの迷いもなく告げられたのだろう。
        ずっとずっと、君が好きだったんだと。



        「・・・・・・ねぇ、来年は、ずっと一緒にいられるのね」
        「え?」

        剣心が顔を上げると、薫はごそごそと手をのばして、畳の上の暦を引き寄せた。そのまま身体をよじって、ぱらりと暦をめくる。
        「今年は、一緒にいられない時もあったでしょう?ほら、このあたりとか・・・・・・このあたりも」
        指で繰りながら示したのは、一年が始まったばかりの、まだ出逢う前の数十日。そして五月のひとときの別離と、縁によって引き離された幾日かと。
        「三百六十五日のうち、結構あったでしょう?一緒にいられなかった期間が」
        「確かに・・・・・・それこそ、勿体無かったでござるな」
        殊更に深刻な面持ちで剣心が同意し―――そしてふたりは顔を見合わせて、笑った。

        「・・・・・・来年は、そんな勿体無いことにはならないでござるよ。元旦から大晦日の夜までちゃんと一緒でござるし、もし、一緒にいられない日があったとし
        ても―――」
        「あったとしても?」
        剣心は、畳に手をついて身を起こし、薫の背を抱き寄せた。
        「その次の日に、ちゃんとその分を取り戻すでござるよ」
        「どうやって?」
        「こうやって」


        剣心は、薫の耳元に口を寄せる。
        そして、真摯な祈りを捧げるような声で、そっと「好き」と囁いた。


        出逢ってから、幾度この言葉が胸の奥で生まれただろうか。
        何度この言葉を、心の中で唱えただろうか。

        心の中で綴ってきたこの言葉を、もう封じ込める必要はない。
        これからは―――新しく始まる一年も、その先も更に先も、ちゃんと君に届けていこう。
        抑えようもない、君をめぐるこの想いのすべてを。





        腕の中の薫が、「わたしも」と潤んだ声で答えた。
        交わした想いを誓い合うように、唇が重ねられる。

        風に乗って運ばれてきた綿雪が、ふわりと群青の空に舞った。
        灯りのともし頃、ふたりが寄り添う部屋は甘く優しい静寂に包まれる。







        ゆっくりと穏やかに、出逢いの年が、暮れてゆく。

















        了。





                                                                                          2015.12.29








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